ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)のコードに反する言動をSNSなどでバッシングし、社会的な地位をキャンセルする「キャンセル・カルチャー」が日本でも世界(先進諸国)でも大きな問題になっている。だがこれは昨今の話ではなく、アメリカの編集者・作家ジョナサン・ローチ(1960年生まれ)の『表現の自由を脅すもの』(飯坂良明訳、角川選書)を読むと、1980年代後半から、欧米で「言論・表現の自由」に対する過剰な規制が行なわれるようになったことがわかる。

 1993年に刊行された本書の原題は“Kindly Inquisitors: The New Attacks on Free Thought(親切な審問官 自由な考えへの新たな攻撃)”。Inquisitorsは「尋問者」の意味だが、異端審問を表わすラテン語の“Inquisitio”から派生し、中世後期から近代初期にかけてスペインなど欧州に広まった「魔女狩り」を連想させる言葉だ。著者のローチは30年も前に、「社会正義」の名において現代の異端審問(宗教裁判)が行なわれていると警告していた。

キャンセル・カルチャーの時代を予見

 1990年、フランスでは国内のユダヤ人墓地荒らしをきっかけに反人種差別法が強化され、「第二次世界大戦中のユダヤ人大虐殺の真実を問題にするといった、極右活動家たちの間によく見られる歴史的傾向」が法によって禁止された。

 1989年、オーストラリアのニューサウスウェールズ州議会は、公の場での人種差別的発言を禁止し、「(州の)反差別局は、報告が〈公正〉かどうか、討論が〈筋の通った〉、〈誠実な〉、そして〈公益に資する〉ものであるかどうかを判断する権限を付与される。反差別局は、芸術的表現、調査論文、学術的論争、および科学的質問内容が容認しうるものであるかどうかを判定するものとする」と規定した。

30年前にすでに警告は発せられていた。“「社会正義」の名において現代の異端審問(宗教裁判)が行なわれている”Photo:ARNIVSILZE / PIXTA(ピクスタ)

 1992年、オーストリアでは「印刷物、電波、およびその他の媒体を用いて、ナチの大虐殺、またはその他のナチ犯罪を否定したり、著しく過小評価したり、称賛したり、または正当化すること」が犯罪とされた。

 同時期にデンマークでは、市民権法によって、人種、宗教、民族的背景、性的態度によって、人を公然と脅迫、侮辱、軽蔑することが禁じられ、イギリスも人種関係法で「少数人種に属するものを、人種的侮辱から守る」という理由で、暴力につながる場合だけでなく、人種的憎悪を表明する言辞を広く違法とした。

 またカナダでは1989年、「人種グループを大きく3つに分け、平均的に言って、黒人には高出生率への傾向があり、アジア人には子供の養育に親が強く関与する傾向がある。そして白人はその中間である」という説を唱えた心理学者がテレビや新聞で「ネオナチ」だとバッシングされただけでなく、オンタリオ州の地方警察は、カナダの憎悪発言禁止の政策に基づいて、2年の禁錮刑に当たるかどうかを6カ月にわたって取り調べた。

 このように1990年前後に、ヨーロッパ、カナダ、オーストラリアで、人種差別や(ホロコースト否認のような)歴史修正主義への法的規制が強化された。だがアメリカでは、憲法修正第1条が「(連邦議会は)言論若しくは出版の自由、または人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない」と定めているため、欧州のような法的規制は不可能だった。その結果、「人を傷つけるような発言に反対するには、法的な形を取るよりも主として道徳的運動となり、非政府組織、特に各種大学が、率先、これを主導した」とローチはいう。

 1990年、スタンフォード大学は「性、人種、皮膚の色、障害、性的態度、国民的民族的出自等によって、個人や少数者を故意に侮辱または非難するような」言論その他の表現を禁止し、処罰する規制を制定した。同時期にミシガン大学では、教室の討論において「同性愛は治療できる病気だ」と述べた学生が懲罰会議にかけられ、サザン・メソジスト大学では、マーチン・ルーサー・キングを「共産主義者」と非難した新一年生が30時間の社会奉仕を命じられた。

 ミシガン大学のケースは処罰された学生が連邦裁判所に訴えたことで、アメリカ国内で大きな論争を巻き起こした。判決では、言論・表現の自由への過度な規制は私立大学であっても憲法違反であるとされ、こうした学内規則の多くは廃されることになったという。

 ローチはこうした風潮の背景にあるのは、「他人を言葉でもって傷つけてはならない」という「非常に危険な原則」であり、それは「科学そのものに対する脅威」だとしてキャンセル・カルチャーの時代を予見した。

 もちろんローチは、ホロコーストを否定したり、同性愛を「治療できる」とする言動に与するわけではない。ローチはユダヤ人であり、早くから同性愛者であることをカミングアウトし、同性婚のためのシビル・ユニオンの熱心な活動家でもあった。それにもかかわらず、個人としていかに不愉快な発言であっても、言論・表現の自由は守られるべきだと論じたのだ。

「社会正義」の基準として正しいのは、自由主義的原則だけ

 何が「社会正義」かを決めるには、以下の5つの方法があるとローチはいう。

(1) ファンダメンタリスト(原理主義者)的原則:真理を知る人々が、誰が正しいかを決めるべきである
(2)単純平等主義的原則:あらゆる真摯な人々の信念は平等に尊敬されるべきである
(3) 急進的平等主義的原則:単純平等主義的原則に似ているが、歴史のなかで抑圧されてきた階級や集団に属する人々の信念に特別な考慮が払われるべきである
(4) 人道主義的原則:前述のどれでもよいが、ただし人を傷つけないことを第一にするという条件が付く
(5)自由主義的原則:公然たる批判を通してお互いにチェックし合うことが、誰が正しいかを決める唯一正当な方法である

 ローチが本書を執筆した時期には、公立学校で、聖書の教えにのっとった「創造科学」を進化論と“平等”に教えるべきだとするキリスト教原理主義者の運動が盛んに行なわれていた。これはその後、「“神”であるかどうかは別として、宇宙や生命を生み出したなんらかの知的な存在がいるはずだ」という「インテリジェント・デザイン論」に発展した。

 また1988年には、『悪魔の詩』でムハンマドを冒涜したとして、著者のサルマン・ラシュディに対し、イランの最高指導者だったアヤットラー・ホメイニが「死刑」のファトワー(布告)を出した。欧米のリベラルは、「言論の自由は、ある社会を侮辱する権利ではない」としてホメイニの「死刑宣告」を明確に否定できなかったが、このあいまいな態度が、のちのムハンマドの風刺画をめぐるテロ事件へとつながっていく。ローチがファンダメンタリスト(原理主義者)による言論の自由への攻撃を真っ先に挙げたのは、こうした背景があるからだ。

 社会正義の原則のうち(2)から(4)はリベラルの立場だが、(2)の単純平等主義的原則(すべての人の信念は平等に尊敬されるべきである)は保守派も合意できるだろう。それに対して、特定の集団に配慮する(3)(急進的平等主義原則)の「アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)」をめぐっては、アメリカ社会を二分する論争が続いている。(4)は「人を傷つけるような言動をしてはならない」という、(おそらくは)ほとんどの人が同意する原則だ。

 しかしローチは、これらはぜんぶ間違っているとする。すべての信念は平等に尊敬されるべきではなく、尊重されるべきなのは「自由科学」のルールにのっとって厳しい批判に耐えたものだけだ。その(暫定的な)科学的事実がたとえ誰か(あるいは特定のマイノリティ集団)を傷つけるものであったとしても、「自由な社会」はその痛みを受け入れなくてはならない。すなわち、「社会正義」の基準として正しいのは、(5)の自由主義的原則だけなのだ。

 だが現実には、自由な社会は(1)から(4)の「社会正義」によって危機に追い込まれている。ローチは次のように述べている。

 人に害を与えるような誤った意見を持つ人々は社会の利益のために罰せられるべきであるという「異端裁判」の古い原則が(いまや)返り咲きつつある。そしてそうした人々を監獄にぶち込むことができないならば、職を失わせる、組織的な非難中傷運動の矢面に立たせる、謝らせる、意見を撤回させるようにすべきである。政府で罰せられないならば、私的機関や圧力団体、つまり思想監視の自警団がそれをやるべきであるという。

 30年前に書かれた文章だが、現在の社会状況を評したものだとしてもなんの違和感もないだろう。