2020年5月、黒人男性のジョージ・フロイドがミネアポリスで、白人警察官に膝で首を抑えつけられ、「息ができない」と訴えながら窒息死する事件が起きると、全米で大規模な「BLM(ブラック・ライヴズ・マター)」の抗議デモが起きた。この事件を機にアメリカでは人種問題に関心が集まり、ロビン・ディアンジェロの『ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか?』(貴堂嘉之監訳、上田勢子訳、明石書店)がニューヨークタイムズのベストセラー1位になった。――18年に発売された同書の原題は“White Fragility: Why It's So Hard to Talk To White People to Talk To Racism(白人の脆弱さ なぜ白人にレイシズムの話をするのがこれほど難しいのか)”。

“白人は「生まれる前から」レイシスト”。リベラルな白人こそが差別の元凶という過激な主張の真意とは?Photo : ufabizphoto / PIXTA(ピクスタ)

 この本でディアンジェロは、白人は妊娠から出産までのあいだに、病院や保健センターなどで黒人とまったく異なる扱いを受けるのだから、白人は生まれながらにしてレイシストであるだけでなく、「生まれる前から」レイシストだと主張している。「白人性(whiteness)」を「悪」とし、「白人特権(White Privilege)」を糾弾する、白人女性であるディアンジェロの(過激な)主張はかなりの物議をかもした。

「ナイスな」リベラルこそが、アメリカ社会に深く埋め込まれた人種主義(レイシズム)の元凶

 ロビン・ディアンジェロは「批判的言説分析と白人性研究の分野で活躍する研究者、教育者であり作家」と紹介されるが、企業や行政機関などで行なわれているダイバーシティ(多様性)プログラムのトレーナーであり、人種的正義(反レイシズム)のアクティビストと呼ぶ方が正確だろう。

 そのディアンジェロは21年、『ホワイト・フラジリティ』への批判に応えるかたちで、『ナイス・レイシズム なぜリベラルなあなたが差別するのか?』(甘糟智子訳、明石書店)を出版した。――こちらの原題は“Nice Racism: How Progressive White People Perpetuate Racial Harm Whiteness(ナイス・レイシズム 進歩的な白人は人種的な害悪である「白人性」をどのように永続化するのか)”。

 ここで使われる「ナイス」は「ナイスガイ」と同じで、「明るく、善良で、親切」という、映画やテレビドラマによく出てくる(男も女も含めた)アメリカ白人の自己イメージのことだろう。ディアンジェロは、こうした「ナイスな」リベラルこそが、アメリカ社会に深く埋め込まれた人種主義(レイシズム)の元凶だと告発する。

 大多数の黒人が会社や学校、街なかで接するのは、白人至上主義者のようなあからさまなレイシストではなく、進歩主義の白人だとディアンジェロはいう。だからこそ、ネオナチのような過激なセクトをいくら批判しても、黒人が日常的に遭遇するレイシズムは変わらない。次の一文は、そんなディアンジェロの主張がよく表われている。

 私たち白人の進歩主義者こそが、微笑みを浮かべながら、把握されにくく、否定しやすい方法で日々黒人を貶めているのだ。そして白人の進歩主義者は、自分のことを「レイシストではない」と思っている分、あらゆる指摘に対して非常に自己防衛的になる。しかも自分たちは問題の外側にいると思っているので、さらなる行動の必要性を見いださない。この自己満足は、拡大する白人ナショナリズム運動に対抗する組織化や行動を確実に妨げている。

アメリカのリベラルなメディアは、白人は“white”、黒人は“Black”と表記を使い分けている

 ディアンジェロの「ナイス・レイシズム」について述べる前に、用語の検討をしておかなくてはならない。なぜなら近年の「差別」をめぐる議論は、微妙な「言葉づかい」の争いになっているからだ。これをディアンジェロは、「言葉には政治性があり、それゆれに誰を尊重し、誰が援助を受けるに値するかをめぐる絶え間ない闘争の場となる」と説明している。

 人種問題を論じるときには、そもそも「人種(Race)」とは何かが問題になる。これについては政治イデオロギーを超えておおよその合意が形成されていて、「人種は生物学的な分類ではなく、社会的な構築物である」とされる。したがって、「白人と黒人を生物学的に分類できる」との主張はレイシズムだ。――「ヒト集団としては遺伝的に(わずかな)ちがいがある」との、それなりに説得力のある主張はある。

 人種概念が社会的構築物だとして、「政治としての言葉」にとっての大きな論点は、それぞれの「人種」をどのように呼ぶのかだ。これがよくわかるのは、アメリカのメディアにおいて、「白人」を大文字(White)にするか、小文字(white)にするかで深刻な議論があることだ。

「黒人」は無条件で大文字(Black)で表記されるのだから、白人もWhiteでいいと思うだろうが、問題は、白人至上主義者の団体が「White」の大文字表記を使っていることだ。すなわち、「白人」を大文字で書くと、白人至上主義(人種主義)を支持しているとの暗黙のメッセージになってしまう。そこでリベラルなメディアは、白人は“white”、黒人は“Black”と表記を使い分けているのだという。バカバカしいと思うかもしれないが、このルールを知らないと、アメリカでは「レイシスト」のレッテルを貼られかねないのだ。

「有色人種」は“colored(カラード)”と呼ばれていたが、これは差別語とされ、現在では「People Of Color(ピープル・オブ・カラー)」になり「POC」と略される。「(肌に)色のあるひとたち」のことだ。

 本書でディアンジェロは、これを拡張して「BIPOC」という用語を提唱する。POCにBlack(黒人)とIndigenous(アメリカ原住民)を加えたものだ(ここでは漢語の正しい用法に則って、「先住民」ではなく「原住民」を使っている)。なぜこの2つの「人種」だけが強調されるかというと、「この二つのグループと白人至上主義の確立との関係が歴史的に特異であり、過去においても現在も、最も過酷なレイシズムに直面していることを示すためだ」と説明されている。

 POCは日本語では「有色人種」と訳されることが多いが、悩ましいのは、この用語が意図的に「Race(人種)」を使わないようにしていることだ。そうなると、「ピープル・オブ・カラー」とカタカナ表記するか、「POC」の略語をそのまま使うしかないが、どちらも日本語として定着しているとはいえない。

 だがわたしたちにとって引っかかるのは、“Yellow(黄色人種)”が差別語とされているにもかかわらず、POCではひとびとを肌の色で分類するのだから、東アジア系は必然的に「黄色」とされることではないだろうか。はたしてこれは、ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)の基準に合致するだろうか。

 それ以外にも、インドでは北と南で肌の色がちがう(これが遺伝的なものであることは遺伝人類学によって明らかにされている)とか、イラン人や北インドのアーリアはヨーロッパ系白人とルーツが同じコケイジャン(白人)だとか、さらにはラテン系(ヒスパニック)には白人、黒人、インディオなどさまざまなルーツがあるが、これは何色になるのかなど、多くの疑問がある。

 だがディアンジェロは、こうした論点にはまったく興味がないようだ。BIPOCという用語を使っていても、インディアン(アメリカ原住民)についてはまったくといっていいほど触れない。彼女にとって重要なのは「白人/黒人」だけで、これがアメリカの人種問題の本質なのだ。

 ここから、白人以外にも人種的な差別や偏見はあるだろが、それは定義上、「レイシズム」ではないという(かなり)奇妙な主張が生まれる(「私は、BIPOCの人々による差別については「レイシズム」という言葉を用いない」)。わたしたち日本人は肌に色があることで、他の人種に対して差別的な発言・行為をしても、「レイシスト」と呼ばれることはないらしい。