みっつ目は、「言葉の再定義」は積極的にやっていいという肯定です。自分のための言葉は、どんどん意味を考えたり、新しい視点を足したり、余計なものを引いたり、思い切って更新したりして構わない。私たちは「言葉を再定義する自由」さえ手にしていることに気がつきました。

 たとえば「時間だけは皆に平等に与えられている」とよく言われます。日本においては明治6年1月1日からグレゴリオ暦が導入されました。「約束事としての24時間」はたしかにその通りです。約束事としては平等ですが、これが個人レベルの「時間」となると、全く様相が変わってきます。そこでこのように再定義してみました。

 時間とは何か?時間は「命」を分割したもの。90年生きれば1年は「1/90の命」3カ月は「1/360の命」。時間の使い方=命の使い方。この意識を強くもつと、時間を大切にするようになる。自分の時間も他の人の時間も。平気で時間を奪いに来る人たちから命を守ろう。憂いなく動ける時間は案外短い。

「時間」という無限に続くであろうものを、時限爆弾を抱えた「自分の寿命」と関連付けて考えた場合、時間の与えられ方は全く平等ではないことに気づかざるを得なくなります。1年の意味、1カ月の意味さえ、誰ひとり同じではない。時間の使い方が「その人のライフ」になる。「時間」を自分なりに定義したことで「意義のあることにライフを使おう」「今鍛えておけば、動ける時間を長くできる」「関わってくれる人たちの時間を無駄にしないようにしよう」など、自分を方向付けるパワーが生じたのです。

 私たちは「言葉を変える自由」を手にしています。せっかく未来が変わるギアを手にしているのに、その自由を駆使しないのはあまりにも勿体ないと思うのです。自分らしくない言葉、腑に落ちない言葉、お仕着せの言葉、何も動かない言葉、思考停止を導く言葉をそのままにしておくことはありません。どんどん現実が動き出す言葉に変換して構わないのです。