私たちには
「言葉を変える自由」がある

 そして、自分のための言葉。これは共有が目的ではなく、認識や思考のためのパーソナルな色彩の強い言葉です。たとえば「趣味と仕事の違いは何ですか?」の質問に、唯一の正解はありません。別の見方をするならば、質問の答えには「その人の認識が表れる」ということでもありましょう。

 私は20代の頃、「自分のやりたいこと」と「(飯を食うために稼ぐを含めた)自分がやらなければならないこと」について迷いの暗闇の中にいたのですが、ある言葉が光の方向を教えてくれました。

「好きなことをしてお金を払うのを趣味という。好きなことをしてお金をもらうのをプロという」

 ジャーナリスト・田原総一朗氏の言葉でした。彼の短い二文の中に、私はみっつの大切なことを見つけました。

 ひとつ目は「好きなことをやっていい」の肯定です。「嫌いなことでも歯を食いしばり、時には心をボロボロに擦り減らしてでもやれ!」という昭和的ファシズムもなく、「仕事が何よりも大切だ」という同調圧力も感じられない言葉に、「好きなことを追求していい」というパスポートを手にしたような気持ちになりました。

 ふたつ目は同じ「好きなことをする」にも、ふたつのサイドがあるということです。本を読むだけなら、読書家のまま。音楽を聴くだけなら、音楽ファンのまま。お酒を飲むだけなら、愛飲家のまま。プロの側に立つには、好きなことに「価値」をもたせる必要があるのです。

 有り難いことに、田原氏のプロの定義には「食える、食えない」の基準がありませんでした。たとえ500円であっても100円であっても、お金の流れが逆になれば、それはプロと考えていい。彼の言葉をそのように都合よく解釈しました。

 私が20代の頃は「プロとはそれで食える人」というなんとなくの不文律があって、「専従でなくてはならない」みたいな空気が支配的でした。でも、「いきなり好きなことで生活費を稼げる状態になるって結構なジャンプだよな」と思っていたので、彼の言葉は救いになりました。

 それから20年以上が経過し、「働き方改革」「副業OK」「好きなことで生きていく」といった言葉がメディアを賑わすようになりました。好きなことを徹底追究し、みんなにわかりやすく、楽しく伝える「さかなクン的才能」がどんどん世間に認められました。そしてタレントや芸人さんたちの「こだわりの趣味」とプロとして磨いた「話術や表現力」が見事に掛け合わされ、コンテンツとして価値をもつようになりました。企業に勤める人が、複数の収入源をもって生きるのも特別なことではなくなってきました。時代は、田原氏の言葉の方向に進んでいったのです。