「ここまでデータに基づいて書かれた健康習慣本は他にない」(統計家・西内啓)と評され、話題となっている健康になる技術 大全。本書の著者、林英恵さんが語る「健康になる技術」とは、健康でいるために必要なことを実践するスキルです。本連載では、「食事」「運動」「習慣」「ストレス」「睡眠」「感情」「認知」のテーマで、現在の最新のエビデンスに基づいた健康に関する情報を集め、最新の健康になるための技術をまとめていきます。健康のための習慣づくりに欠かせない考え方や、悪習慣を断ち切るためのコツ、健康習慣をスムーズに身につけるための感情との付き合い方などを、行動科学やヘルスコミュニケーションのエビデンスに基づいて、丁寧にご紹介していきます。今回は、「怒り」が健康に悪影響を及ぼす理由についてです。(写真/榊智朗)
監修:イチローカワチ(ハーバード公衆衛生大学院教授 元学部長)

「あやしい治療法のリスク」を甘く見てしまう、健康と「怒り」の怖い関係Photo: Adobe Stock

怒りの感情はパワフル

 怒りは、人が持つ感情の中で、最もよく湧き起こるものの1つです(*1)。10週目の赤ん坊であっても、怒りの表情は察知できるといわれるほど、悲しみや嫌悪感など他のネガティブな感情の中でも、怒りの感情はとてもパワフルです(*2)。

 怒りは、とても衝動的で、人の考えや、決意、行動など、その怒りの元が何だったかにかかわらず、変えうる力強さをもった感情です(*1)。

 日本語には、怒りについて表現したことわざがたくさんあります。例えば、徳川家康の家訓に「怒りは敵と思え」がありますが、これはまさに怒りは身を滅ぼすことを示唆した言葉です。「短気は損気」なども含め、昔の人たちは、怒りの感情の強さと、その影響を知っていたのでしょう。

 怒りの感情を作りだす鍵となるのは、人から「傷つけられたり、ないがしろにされたり、おとしめられた」と感じることです。

 怒りが他のネガティブな感情に比べて特別といわれるのは、怒りの感情を持っている時は、怒っていたことや、怒りの元(人であれ、出来事であれ)に対して、確信的な気持ちを持っていることと関係しています(*1)。

 みなさんも、考えてみてください。

 例えば、仲の良い友だちグループが、自分を誘わずにパーティーを行ったとします。怒りの気持ちが湧くのは、友だちが「わざと」自分を呼ばなかった可能性があるという確かな気持ちが自分のなかにあるからです。もし、自分をわざと呼ばなかったのではなく、連絡済みと思って連絡を忘れたり、忙しいと思って気を使ってくれたりしたのではと思えるような、怒る対象に確信的な気持ちがなければ、怒りではない別の気持ちがまず湧き起こるはずです。

 このような「自分の見たこと、感じていることは間違っていない」という認識が、意思決定に重要な影響を与えます。

人への信頼を低くし、リスクを低く見積もらせる「怒り」

 特に怒りは、健康の選択において、2つの点で大きな影響があります。それは、人を信頼しにくくなることと、リスクを軽視してしまうことです。

 まず、人との関係において、怒りを持っている人は、他の様々な感情(例えば、悲しみ、罪悪感、感謝など)を持っている人よりも、人を信頼しにくくなります(*3)。

 また、人に罰を与えるようなことをしたり、人やものを責める気持ちと行動が、切るに切れない感情のサイクルとなってしまうのです(*1)。

 人とのつながりは、健康を保つためのとても重要な要素です。人と信頼関係を築けているか、また信頼できるような絆のあるコミュニティに属しているかが、その人の精神状態や身体的な状態に影響を与えることは、最近の研究でわかっています。怒りの感情は、人との関係を築く上で、関係そのものを壊してしまう可能性があります。

怒りの気持ちは、楽観的になり、リスクを低く見積もらせる

 それだけではありません。怒りの気持ちは、往々にして楽観的になり、リスクを低く見積もらせます(*1,4)。これは、健康の習慣づくりにおいて、危険です。

 怒りは、人生の様々なことは自分でコントロールできるという、ある意味自信過剰な気持ちになるために、何か病気のリスクがあっても、「自分は大丈夫」と思って、気持ちが大きくなってしまいやすくなります

 さらに厄介なのは、怒りを持っていると、逆に刺激やリスクを求めて、やけくそな行動とりがちになることです。この傾向は、特に、効果や利益がよくわからないものに対しても、リスクをいとわない、ある意味、勇敢とも思われる意思決定をさせます(*5)。

 例えば、実際、怒りを感じている時には、がんなど病気の治療法に対して、たとえその治療法による効果がよくわからない時でも、試してみようと思う気持ちになる傾向があることがわかっています(*6)。

 言葉を変えると、今の治療に満足せずに医師や病院に怒りの気持ちがあると、よくわからない治療にも手を出したくなる可能性があります。また、悲しい状態や他の落ち着いている状態の時よりも、直感的な選択に頼りやすくなります。細部までじっくり考えることをしなくなるので、ケアレスミスをおかしやすくなったり、より表面的なものにとらわれることが多くなります(*7)。

 リスクをどのように認識するかは、健康のための意思決定においてとても大切なことです。なぜなら、どのような健康習慣も、人は意識するしないにかかわらず、行動のリスクとベネフィットを天秤にかけているからです。怒りがあると、このリスクの見積もりを誤ってしまうのです。

【参考文献】

*1 Lerner JS, Tiedens LZ. Portrait of the angry decision maker: how appraisal tendencies shape anger's influence on cognition. J Behav Decis Mak. 2006;19(2):115-37.
*2 Haviland JM, Lelwica ML. The induced affect response: 10-week-old infants' responses to three emotion expressions. Dev Psychol. 1987;23(1):97-104.
*3 Dunn JR, Schweitzer ME. Feeling and believing: the influence of emotion on trust. J Pers Soc Psychol. 2005;88(5):736-48.
*4 Lerner JS, Keltner D. Beyond valence: Toward a model of emotion-specific influences on judgement and choice. Cognition and Emotion. 2000;14(4):473-93.
*5 Roberto CA, Kawachi I. Behavioral economics and public health. Oxford, U.K.: Oxford University Press; 2015.
*6 Reyna VF, Nelson WL, Han PK, Pignone MP. Decision making and cancer. Am Psychol. 2015;70(2):105-18.
*7 Bodenhausen GV, Sheppard LA, Kramer GP. Negative affect and social judgment: the differential impact of anger and sadness. J Soc Psychol. 1994;24(1):45-62.

(本原稿は、林英恵著『健康になる技術 大全』から一部抜粋・修正して構成したものです)

「あやしい治療法のリスク」を甘く見てしまう、健康と「怒り」の怖い関係林 英恵(はやし・はなえ)
パブリックヘルスストラテジスト・公衆衛生学者(行動科学・ヘルスコミュニケーション・社会疫学)、Down to Earth 株式会社代表取締役、慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート特任准教授、東京大学・東京医科歯科大学非常勤講師
1979年千葉県生まれ。2004年早稲田大学社会科学部卒業、2006年ボストン大学教育大学院修士課程修了、2012年ハーバード大学公衆衛生大学院修士課程を経て、2016年同大学院社会行動科学部にて博士号取得(Doctor of Science:科学博士・同学部の博士号取得は日本人女性初)。専門は、行動科学・ヘルスコミュニケーション、および社会疫学。一人でも多くの人が与えられた寿命を幸せに全うできる社会を作ることが使命。様々な国で健康づくりに携わる中で、多くの人たちが、健康法は知っていても習慣づける方法を知らないため、やめたい悪習慣をたちきり、身につけたい健康法を実践することができないことを痛感する。長きにわたって頼りになる「健康習慣の身につけ方」を科学的に説いた日本人向けの本を書きたいと思い、『健康になる技術 大全」を執筆した。
2007年から2020年まで、外資系広告会社であるマッキャンヘルスで戦略プランナーとして本社ニューヨーク・ロンドン・東京にて勤務。ニューヨークでの勤務中に博士号を取得。東京ではパブリックヘルス部門を立ち上げ、マッキャンパブリックヘルス・アジアパシフィックディレクターとして勤務後、独立。2020年、Down to Earth(ダウン トゥー アース)株式会社を設立。社名は英語で「実践的な、親しみやすい」という意味で、学問と実践の世界を繋ぐことを意図している。現在は、国際機関や国、自治体、企業などに対し、健康に関する戦略・事業開発、コンサルティングを行い、学術研究なども行っている。加えて、個人の行動変容をサポートするためのライフスタイルブランドの設立準備中。2018年、アメリカのジョン・ロックフェラー3世が設立したアジアソサエティ(本部・ニューヨーク)が選ぶ、アジア太平洋地域のヤングリーダー“Asia 21 Young Leaders”に選出。また、2020年、アメリカのアイゼンハワー元大統領によるアイゼンハワー財団(本部・フィラデルフィア)が手がける、世界の女性リーダー“Global Women’s Leadership Fellow”に唯一の日本人として選ばれる。両組織において、現在もフェローとして国際的な活動を続ける。
『命の格差は止められるか ハーバード日本人教授の、世界が注目する授業』(小学館)をプロデュース。著書に、『健康になる技術 大全」(ダイヤモンド社)、『それでもあきらめない ハーバードが私に教えてくれたこと』(あさ出版)がある。
https://hanahayashi.com/