「武田信玄は信長のライバル」は過大評価!“甲斐のローカルヒーロー”の実像甲府駅前の武田信玄公像 Photo:PIXTA

武田信玄は実は
信長に従属的な同盟者

 織田信長の天下統一に立ちはだかった戦国・最強軍団といえば、武田信玄(晴信)率いる甲州武士だということになっている。

 しかし、信玄は信長に対抗するといえるような大きな大名でもなかったし、むしろ、1565年頃からは、信長の天下取り構想に協力する従属的な同盟者であって、家康に似た立場において、信長の支持を競う立場にあった。

 信玄が信長に反旗を翻したのは、1572年。死の半年前になってのことだ。信長が畿内で近江の浅井、越前の朝倉、三好三人衆、本願寺、毛利などと対立していたのを見て、動けないとみた武田信玄が、10月から浜松の徳川家康を攻め、それに対して、信長が家康の元へ3000人の援軍を送り、12月22日に三方ヶ原の戦いで戦ったことで絶縁になった結果である。

 それを見て、将軍・足利義昭は1573年2月13日、ついに反信長の兵を挙げた。だが、あてにしていた越前の朝倉義景が雪を理由に動かず、信長の優位で戦局が動く中で、4月12日に信玄は信濃(長野県)で病死している。つまり、信長と信玄が敵対したのは、せいぜい半年だけである。

 その前はどうかというと、1560年の桶狭間の戦いのあとも駿河の今川家と友好関係にあった信玄は、1565年に信長との同盟に乗り換えたのだから、7年間は友好関係だった。

 しかも、両者の力には大きな差があった。三方ヶ原の戦いの時点では、信長の支配地はだいたい400万石近くであり、信玄は100万石ほどで勝負にならなかったのである。信玄は家康のライバルではあるが、信長のライバルというほどの武将ではなかったのである。

 そのあたりを時間の経緯とともに検証し、あわせて、なぜそんな程度のローカルな武将が天下人信長のライバルだったかのごとく持ち上げられたのかを解明していこう。