JR東日本は7月24日、鶴見線に今年冬から順次、新型車両E131系を24両(3両編成、8編成)導入すると発表した。雑草の生い茂る線路をトコトコ走る3両編成の電車、戦前の姿をそのまま残す駅は、ローカル線以上にローカルであり、その不思議な雰囲気に引かれる人も多い。今回は鶴見線の面白い深い歴史について解説する。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)

浅野財閥の総帥が
設立した鶴見臨港鉄道

現行の鶴見線車両の205系現行の鶴見線車両の205系(筆者撮影)

 JR東日本は7月24日、鶴見線に今年冬から順次、新型車両E131系を24両(3両編成、8編成)導入すると発表した。

 同線では現在、20年ほど前に山手線で運行されていた「205系」を改造した車両が用いられているが、それ以前にも他路線からの転属車両ばかりが用いられてきた歴史がある。それどころか1996年まで戦前(1929年)に製造された化石のような電車が現役で走っていたほどだったが、ついに大型ディスプレーや防犯カメラなどを備えた新型車両が投入されることになる。

 横浜市から川崎市まで臨港工業地帯を走る鶴見線は、鶴見駅を起点に扇町方面、海芝浦方面、大川方面と3つの行き先に分岐し、それぞれの駅周辺にある工場などへの通勤輸送を支えている。

 朝ラッシュこそ3方向合計で1時間11本の列車が設定されているが、日中は1時間3本で、大川方面の列車は設定されない。雑草の生い茂る線路をトコトコ走る3両編成の電車、戦前の姿をそのまま残す駅は、ローカル線以上にローカルであり、その不思議な雰囲気に惹かれる人も多い。鶴見線巡りを題材にした記事は多いので、風情はそちらに譲るとして、本記事では負けず劣らず面白い歴史に着目したい。

 鶴見線は元々、私鉄「鶴見臨港鉄道」として1924年に設立。国鉄の貨物線浜川崎と接続する形の貨物線として1926年に開業。1930年、鶴見仮駅まで延伸して旅客営業を開始し、1934年に国鉄鶴見駅に乗り入れたが、太平洋戦争中の1943年に国に買収され国鉄に組み込まれ、現在に至る。

 鶴見臨港鉄道を設立したのは浅野財閥の総帥、浅野総一郎だ。浅野は富山出身の実業家で、横浜を拠点に石炭やコークスの取引で財を成し、渋沢栄一の知遇を得る。その後、都市の近代化に不可欠なセメントに目をつけると、官業セメント工場の払い下げを受け「浅野セメント」を設立。これを中心としてさまざまな事業に進出し、一代で浅野財閥を築き上げた。

 彼の業績のひとつが鶴見沿岸の埋め立て事業だ。欧米の港湾都市では大工場に船が横付け、原料や製品の積み下ろしが迅速に行われているのを目の当たりにし、京浜間に臨海工業都市の建設を決意。1908年に埋め立てを出願した。

 地元地権者や漁業権など利害関係者との調整を経て1913年に着工し、1922年に140万坪が造成した。その間、第1次世界大戦が勃発し、日本の重工業が大きく発展したこと、また翌年の関東大震災で従来の工業地域である城東(現在の江東区の東半分)が被害を受けた半面、鶴見の埋め立て地は無事だったことから大企業の工場が進出した。浅野の先見性が証明され、後の京浜工業地帯へとつながっていく。