「今日にいたるも、モダン(近代合理主義)は、政治から科学にいたる諸々のものに言葉を与えつづけている。しかし、政治、理念、心情、理論にかかわるモダンのスローガンは、もはや対立の種とはなっても行動のための絆とはならない。われわれの行動自体すでにモダンではなく、ポストモダン(脱近代合理主義)の現実によって評価されるにいたっている。にもかかわらず、われわれはこの新しい現実についての理論、コンセプト、スローガン、知識を持ち合わせていない」(『テクノロジストの条件』)
暗黒の中世にあって、一つの真理を得るならば、論理の力によって、もう一つの真理を得られるはずと考えた幾何学者がいた。とするならば、さらにそこから、もう一つの真理を得る。こうしてやがて、森羅万象、神の存在まで論理の力によって明らかにすることができるとした。
しかしその起点が、悪魔に魅せられたうえでの幻であったのでは、せっかくの論理も砂上の楼閣となる。こうしてデカルトが、これだけは間違いあるまいと起点にしたものが、「我思う。ゆえに我あり」だった。あれやこれやと考えている自分が、ここにこうして存在していることは間違いあるまい。
こうして、論理の力によってすべてを明らかにできるはずとするモダン、すなわち近代合理主義が始まった。そこから、技能の技術化が行なわれ、科学の進歩があり、産業の発展があった。
だがいつの間にか、そのモダンが終わった。ドラッカーがこれに気づき警告を発したのが、1950年代のことだった。
言葉はモダンのものが通用している。しかし、現実はモダンではない。論理では、解決どころか説明もできない問題が次から次へと出てきた。論理で因果を追ったのでは行動を誤る。われわれは、すべてのものを、命あるもの、形態として知覚しなければならない。
「われわれはデカルトの世界観を棄てた。事実われわれにとって、それは、ほとんど理解不能なものとなった。だがわれわれは、今のところ、新しい体系、方法論、公理を手にしたわけではない。われわれのためのデカルトは、まだ現れていない。その結果、今日ではあらゆる体系が、知的のみならず美的な危機に直面している」(『テクノロジストの条件』)