チェルネンコ政権の末期、ソ連共産党政治局員だったゴルバチョフがロンドンを訪問した。チェルネンコが病の床にあり、すでにポスト・チェルネンコの座を巡って何人かの有力な政治局員の名前があがっていたが、ゴルバチョフはその一人だった。彼と面会したサッチャーは、会話の内容やその態度から人物を見抜いた。

 サッチャーは私のインタビューでその時の様子をこう振り返った。

「まず彼は、自分の言葉で自分の考えをストレートにぶつけてきました。ノートを見ながらそれを棒読みするそれまでの指導者とは大違いです。しかも言っていることに一貫性があり、真剣味と共に誠意もありました。相当な知性と勇気を持った人間だと感じさせられました。(中略)その結果私がたどりついた結論は、ゴルバチョフ氏がそれまでのソ連の指導者と違って、一緒に仕事ができる人物ということでした」

 ゴルバチョフとの会談の直後、サッチャーはこう断言した。

「私はまだソ連という国は信用できないが、あなたなら信用する」

 当時、すでにサッチャーと完全な信頼関係を築いていたレーガンが、彼女のアドバイスに従い、ゴルバチョフと何度も会談し、真剣に話しあったことは言うまでもない。

 悲しいかな、わが国のリーダーはそのような人物を見抜く「目」を持ち合わせてはいない。

日本の政治家たちに求められる
「覚悟」と「人間力」

 もう一つ、リーダーに求められる資質として忘れてはならないのが、時に厳しい言葉でも言うべきことを言い、国民に語りかける覚悟である。

 1970年、ヒース内閣で教育大臣に就任したサッチャーは、それまで学校で7歳から11歳までの児童に無償配布されていたミルクの提供を大幅に縮小した。膨らむ一方の公的支出の削減に迫られたやむを得ぬ決断だった。このとき世論やマスコミは彼女を「ミルクスナッチャー」(牛乳泥棒)と非難した。しかし、彼女が志向した「小さな政府」がその後、イギリスを英国病から救い、立ち直らせたことは論を俟たない。

 結果的にサッチャーが首相の座を退くことにつながる「人頭税」の提案も、イギリスが将来にわたって繁栄を続けるためには必要不可欠との信念があったからこそだった。彼女は人頭税の提案をまったく後悔していないことをインタビューで語っている。

「これまであまりに多くの人々が要求だけはする、しかし、それに対しての支払いは一切したくないという姿勢を取ってきました。甘えの構造の他のなにものでもありません。この構造を断ち切るために作られたのがコミュニティ・チャージ(人頭税)だったのです。(中略)次の選挙を考えてあの法案を作ったのではなく、あくまで10年、20年先のわが国にとって良しと信じて行ったことなのですから」