2001年に経営学分野で最高峰の学術雑誌『アカデミー・オブ・マネジメントレビュー』上で発表されて以来、アントレプレナーシップや価値創造など幅広い領域に大きなインパクトを与えてきた「エフェクチュエーション」についての日本初の入門書、『エフェクチュエーション 優れた起業家が実践する「5つの原則」』が発売されました。多くの人にとっては耳慣れない「エフェクチュエーション』という概念について知っていただくため、本連載では同書の一部を紹介していきます。
第8回は、「5つの原則」のうちの1つである「許容可能な損失」について、「行動しないことの機会損失」に焦点を当てて解説します。

行動しないクマPhoto: Adobe Stock

「許容可能な損失」では、「行動しないことの機会損失」も考慮する

 最悪の事態で起きうる損失のなかには、新しいチャレンジをするという行動の選択によって、他の選択を実行できなかったことで生じる架空の費用、すなわち行動することの「機会費用」も含まれます。

 たとえば、会社を辞めて起業した人がそれまで勤め先から得ていた給与所得のように、新しいチャレンジに費やされる時間や労力を、別の取り組みに投入していれば当然得られたであろうリターンが存在するのであれば、それは機会費用であり、損失可能性に考慮されます。ただし、機会費用には、行動しないことの機会費用(機会損失)も存在します。つまり、もしそのタイミングでチャレンジする行動を起こさなかったがゆえに、失われてしまうものがあるのであれば、それもまた損失可能性のなかに考慮されるべきだといえます。

 世の中で起業家やイノベーターと称される人々が、しばしば大きなリスクを伴う行動を思い切って決断をしていることは、許容可能な損失の原則に一見反しているように思われるかもしれませんが、これも行動しないことの機会損失を考慮することで理解可能になります。

 つまり、そうした起業家は、チャレンジがうまくいかない場合に失われるものだけでなく、そのタイミングで行動しないことで逆に失われてしまうもの(機会損失)も考慮している可能性があります。もし後者の機会損失のほうが大きいのであれば、たとえリスクを伴うとしても思い切って行動することのほうが、より損失可能性を低くする、合理的な意思決定といえるでしょう。

トヨタの創業者はなぜ不可能といわれた自動車産業に参入したのか

 トヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎さんが、その前身である豊田自動織機製作所でエンジンの研究に着手し、自動車産業に進出した背景にも、機会損失を考慮した意思決定があったのではないかと理解できます。豊田さんの伝記『カイゼン魂―トヨタを創った男 豊田喜一郎』を著した野口均さんは、そのなかで、経緯を次のように説明しています。

 昭和5年4月、7か月にもわたる欧米の視察旅行から帰国した豊田喜一郎さんは、豊田自動織機製作所の一角にベニヤ板で囲まれた研究室を設け、自ら“道楽”と称して、自動車の小型エンジンの研究に着手しました。

 当時の豊田自動織機製作所は、同社の創業者であり、明治時代の発明王と呼ばれた父・佐吉さんが開発した豊田自動織機の売り上げが好調で、また独自に紡績機の開発にも着手し、総合繊維機械メーカーを目指して躍進していた時期でした。そうしたなかで、困難の大きさゆえに当時の三菱や三井のような大財閥でさえ手を出そうとしなかった自動車の国産化になぜ、彼は踏み切ったのでしょうか。

 その理由としては、繊維機械の世界トップメーカーであるイギリスのプラット・ブラザーズ社を、大正11年と昭和4年の二度にわたって訪問した豊田さんが、かつて栄えていた同社や繊維産業の衰退ぶりを目にし、最も将来性があり、日本にとっても必要な自動車産業への進出を決意したのではないか、という背景が推測されています。

 その時に、豊田さんがしたであろう意思決定について、野口さんは次のように説明しています。

「伸るか反るかの勝負を独断で仕掛けて失敗したところで、それが日本のためになる発明や新分野への挑戦なら、後ろ指を指されることはない。むしろ、守りに入って何も挑戦しないほうが(明治国家の発展のために自動織機の発明に邁進した父)佐吉の精神に悖(もと)るわけだ。」(野口、2016年、147ページ)。

 つまり豊田さんは、リスクの大きいチャレンジによる損失可能性よりも、チャレンジしないことで失うもののほうが大きいと判断したと考えられます。これはまさに、行動しないことの機会損失を明確に意識した意思決定だった、といえるでしょう。