2020年6月1日に「改正労働施策総合推進法」(パワハラ防止法)が施行され、大企業の事業主にはパワハラ防止対策が義務付けられた。2022年4月1日には中小企業にも適用され、日本全体でパワハラは許されなくなった。この立法の背景には、職場における過労死や自殺、精神障害などが、多くの場合、いじめや嫌がらせ、言葉の暴力に起因していることがある。
パワハラは、経済的にも容認できない。2020年10月に公表された九州大学教授の馬奈木俊介氏と従業員支援プログラムを提供するピースマインドによる共同調査「ハラスメントによるストレスの影響とその経済的損失についての分析調査」では、「職場でいじめに遭っている」と回答した人には、そのストレスの影響で1人当たり17万~40万円の損失が発生しているという。いじめに遭っていないと回答した人も含めて全従業員に均(なら)すと、1人当たり4万円の損失となり、従業員1000人の企業ならば4000万円もの損失が生じる計算になる。日本の産業界全体で見ると、フルタイム職員(2019年度で3500万人)だけでも、その損失額は約1兆4000億円に相当する。
このようにパワハラだけでも大問題だが、組織におけるハラスメントは、セクハラ、モラハラ、マタハラなど、一説によると種類は2桁に上る。厚生労働省が2020年度に実施した「職場のハラスメントに関する実態調査」は、全国の20~64歳の男女就労者8000人を対象に、過去3年間に受けたハラスメント経験を尋ねたものだが、パワハラ(31・4%)、カスタマーハラスメント(15%)、セクハラ(10・2%)をはじめ、ほとんどの人々が何らかのハラスメントを「経験あり」と答えている。
同調査では、ハラスメントが起きやすい職場の特徴が示されている。第1位「上司と部下のコミュニケーションが少ない/ない」(37.3%)、第2位「残業が多い/休暇を取りづらい」(30.7%)、第3位「業績が低下している/低調である」(28.6%)、第4位「従業員の年代に偏りがある」(27.2%)、第5位「失敗が許されない/失敗への許容度が低い」(23.7%)となっている。いわゆる「不機嫌な職場」であり、心理的安全性が担保されていない職場といえる。
では、こうした笑えない現実に、いかに対応すべきか。先の調査では、ハラスメント対策を講じることで、「職場のコミュニケーションが活性化する/風通しがよくなる」(35.9%)、「管理職の意識の変化によって職場環境が変わる」(32.4%)、「会社への信頼感が高まる」(31.9%)といった効果が表れるという。
このような状況下にあって、あらためて注目されているのが、相手を尊重しつつ自分の意見を正当に主張し、理解してもらうコミュニケーション手法といわれる「アサーション」である。その伝道師(エバンジェリスト)である臨床心理士の平木典子氏によれば、アサーションは「職場ぐるみ」で取り組み、開発すべきスキルであり、なかでもカギを握るのが「アンガーマネジメント」(怒りの感情の調整)であるという。アサーション研修を通じて、30年以上にわたって職場内のコミュニケーションの問題と向き合ってきた平木氏に、アサーションの何たるかを聞く。
アサーションの始まりは
社会的弱者の支援から
編集部(以下青文字):外国人労働者やLGBTQ、Z世代などのダイバーシティをはじめ、パワハラ防止法の施行によって企業にハラスメント予防義務が課されたことから、風通しのよい職場づくりに向けて、一人ひとりを尊重するコミュニケーションが求められるようになりました。
代表|臨床心理士・家族心理士
平木典子 NORIKO HIRAKI1959年、津田塾大学英文学科卒業後1964年、ミネソタ大学大学院教育心理学修士課程修了。1979~1980年にサンフランシスコ州立大学にてアサーションと家族療法の訓練を受け、帰国後はこれらを中心とした臨床と対人コミュニケーションのトレーニングに従事。日本女子大学人間社会学部、跡見学園女子大学文学部、東京福祉大学大学院の教授を歴任。また、臨床心理士養成指定大学院においても20年以上にわたって教鞭を執り、後進の指導に当たる。現在は、日本アサーション協会代表。臨床心理士、家族心理士。著書に、『カウンセリングとは何か』(朝日選書、1994年)、『いまの自分をほめてみよう』(大和出版、1996年)、『自己カウンセリングとアサーションのすすめ』(金子書房、2000年)、『言いたいことがきちんと伝わる50のレッスン』(大和出版、2000年)、『自分の気持ちを素直に伝える52のレッスン』(大和出版、2001年)、『NOを言える人の「話し方」47のレッスン』(大和出版、2002年)、『図解 自分の気持ちをきちんと〈伝える〉技術』(PHP研究所、2007年)、『カウンセリングの心と技術』(金剛出版、2008年)、『言いたいことがきちんと伝わるレッスン』(大和出版、2008年)、『臨床心理学をまなぶ④ 統合的介入法』(東京大学出版会、2010年)、『子どものための自分の気持ちが〈言える〉技術』(PHP研究所、2009年)、『アサーション入門』(講談社現代新書、2012年)、『カウンセリング・スキルを学ぶ』(金剛出版、2013年)、『図解 相手の気持ちをきちんと〈聞く〉技術』(PHP研究所、2013年)、『アサーションの心』(朝日新聞出版、2015年)、『増補改訂 心理臨床スーパーヴィジョン』(金剛出版、2017年)、『カウンセリング・スキルアップのこつ』(金剛出版、2020年)、『新・カウンセリングの話』(朝日新聞出版、2020年)、『三訂版 アサーショントレーニング』(日本・精神技術研究所、2021年)、『言いにくいことが言えるようになる伝え方 自分も相手も大切にするアサーション』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2023年)などがある。訳書をはじめ、共著・共編著多数
そうした中で再注目されているのが、平木先生が長年取り組んでこられた「アサーション」です。ただし、企業のエグゼクティブ層には、会計監査におけるアサーション(財務諸表の正当性を示す経営者の主張)は知られているものの、対人コミュニケーションスキルとしてのアサーションについては、あまり馴染みがないかもしれません。そこで、「アサーションとは何か」を理解するために、その成り立ちと発展プロセスについて教えてください。
平木(以下略):アサーションは1950年代のアメリカにおいてカウンセリングや心理療法から派生したもので、対人関係がうまくいかない人たちや対話が苦手な人たちのために、コミュニケーションの改善や支援の方法として開発されたものです。
その後1970年代から80年代にかけて、人種差別や性差別などを受けている社会的弱者のためのコミュニケーション手法として活用されるようになりました。特に対象となったのが女性です。職業で見ると、看護師が多く、患者や医師を支援する立場にある彼女たちは、要求を受け入れるうちに相手の言いなりになる、言いたいことを言えずにひたすら耐えるといった不本意な状況に陥りがちでした。まさしくハラスメント被害者です。それは女性に限った話ではなく、人間関係における下の立場、たとえば部下や子どもにも同様の傾向が見られました。
ちょうどその頃、ロバート・アルベルティとマイケル・エモンズの『自己主張トレーニング』(東京図書)が世界的なベストセラーとなりました。その後押しもあって、自己表現は「人権」であるとの認識が広まり、その方法論の一つとしてアサーションが普及していったのです。邦訳は1994年に発行され、2009年に改訂新版の新訳が上梓されています。
なお、アサーションを辞書で引くと、「主張」「断言」という訳が出てきます。この日本語は、アサーションが本来意味するところを正確に伝えていません。ですので、私はアサーションを「自分も相手も大切にする自己表現」と定義しています。具体的には、自分の考えや感情をきちんと言葉にして、それを正直に伝え、これに対する相手の反応を受け止めるという双方向コミュニケーションを意味しています。