明国征服が容易にできるとは
見通していなかった秀吉
この時代の状況を明国から見ると、モンゴル人たちは、元の復興を狙って万里の長城の外側で活動していたが、1550年代あたりにアルタン・ハーンという英雄が内蒙古で活躍し、明国はかなり厚遇し懐柔して小康状態を得た。このアルタン・ハーンとの交渉は、秀吉との交渉の下敷きになった。
日本については、倭寇に悩みつつも、大内氏に勘合貿易という利益を与えて最低限の秩序と交流を保っていたが、大内氏の滅亡後は倭寇の被害がさらに拡大した。一方、ポルトガル人と明国の限定的な交易は倭寇対策としても役立っていた。
朝鮮とも百済王室の末と称する大内氏や対馬の宗氏に利権を与えることで、活発ではないが、一定の交易や文化交流が確保された。
そして、天下統一を成し遂げた秀吉は海賊取り締まりを徹底したから、明国も李氏朝鮮も積極的な接近策を取ることが賢明だったはずだった。だが、李氏朝鮮は唯我独尊で敵対的な態度を取っており、友好的な関係を持とうとしないでもたもたしているから、秀吉から「明国を攻めるので先導役をしろ」と命じられた。
他国への侵攻には協力したくないといっても、モンゴルと一緒に日本を攻めているのだから説得力がない。そもそも、日本にとっては、古代に任那を失ったが回復を諦めた覚えもない。少なくとも、中国に従属している朝鮮に、それをやめて「日本につけ」というのは、歴史的経緯として不当とはいえない。
明国にしてみれば、日朝が接近する合理性はあるのだから、文禄の役に至るまでの交渉を横目で見ていて、「朝鮮は日本の要求をのんで明国を攻めるらしい」と明国は疑心暗鬼だったほどだ。
明国征服という見通しを最初から秀吉が持っていたかといえば、そうではないと思う。夢物語としてはあったかもしれないが、それは海外進出に際して「世界市場でのトップになるつもりで頑張ろう」というようなものだ。
朝鮮を攻めるのが九州や関東より簡単と思うはずもなかろう。半島の南部を占領して、領土の割譲、臣従、中国との貿易の仲介などがとりあえず満足な成果になったはずだが、そのあたりは、次の機会に書きたい。
それなら、どうして北京を占領して、天皇にも引っ越してもらうとかいう壮大な話になったかといえば、朝鮮の軍隊は弱く、民衆は苛政に耐えかねて日本軍をそこそこ歓迎し、一気に首都・漢城を攻めたところ、国王は逃げ出してしまい、占領できてしまったから朝鮮だけでなく明国も弱いと錯覚したのである。
しかし、明軍がやってきて漢城まで撤退したところで、現実的な路線に戻った。こうして太閤の夢は一瞬だけとなって、新しい国際秩序をめぐって、軍事的にも外交的にも壮烈な戦いが繰り広げられることになったが、ドラマの世界で描かれるほど悪い状況でなかったわけでないことは次の機会に解説したい。
(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)