史実としてあり得ない
先週放送の「どうする家康」
先週放送の「どうする家康」では、家康が堺見物をしている間に本能寺の変が起こり、忍者たちの助けでようやく岡崎に逃げ帰った。一方、秀吉は信長の次男・信雄と組み、お市と結婚し信長の三男・信孝を擁して対抗する柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで滅ぼした。その頃、信濃と甲斐を横取りすることに専念していた家康は、お市からの援軍要請を無視するしかなかった。
茶々をはじめとする浅井三姉妹は、落城寸前に城を出て、秀吉の陣に送り届けられたが、「どうする家康」で長女の茶々(淀殿)を演じる13歳の白鳥玉季の怪演に絶賛の嵐だ。助けを求めるお市を見殺しにしたというので、母に「徳川殿はうそつき」「あの方を恨みます」といい、「母の無念を茶々が晴らします」「茶々が天下を取ります」と言い放つ。
余談だが、大坂夏の陣まで、茶々を白鳥玉季が演じるとは考えにくく、SNSでは「もしかして、(お市を演じる)北川景子の一人二役なのではないか」などと言われている。
一方、お市を手に入れ損ねた秀吉だが、「織田の血筋、残念でした」という弟・秀長に「愚かなおなごだわ」「3、4年すれば代わりはおるでよ」と茶々の頬をなでるが、茶々は秀吉の手を握り返して不敵な笑みを浮かべ、秀吉もひるんだ表情という展開だった。
「どうする家康」でのこれらの話は、史実としては、まったくあり得ない展開だ。秀吉がお市に懸想していたなどという話は、『【どうする家康】史実無視でデタラメな本能寺の変、清洲会議で秀吉・勝家対立の“意外な理由”』でも書いたが、そもそも、秀吉とお市は会ったこともない可能性すらあり、勝家との結婚は信長とお市の母である土田御前が秀吉の協力者である堀秀政らと取り計らったものと思われ、秀吉も賛成していた。
秀吉が茶々を側室にしたひとつの理由に、「織田の血を引く子が欲しかった」ということもあったかもしれない。ただ、北ノ庄落城のときにそんなことを考えていたというのはあり得ない。
なぜなら、この時点では、織田信長の四男である於次丸秀勝が秀吉の養子になって嫡男として扱われ、本能寺の変の後の清洲会議では、明智光秀の丹波での居城だった亀山城主(現在は京都府亀岡市だが、これは版籍奉還時に伊勢亀山と同名だったので改称したため)で丹波という大国を領する大大名になっていたのである。
企業に例えるなら、織田家は名古屋に本拠を置く都市銀行(織田銀行)で、松平家は岡崎に本拠を置く織田銀行系列の地方銀行といった力関係であり、信長と家康は両行のオーナー同士という関係だ。
そして秀吉は、織田銀行の高卒入行からのし上がったサラリーマン常務といった程度で、会長(信長)と社長(信忠)が同時期に亡くなったので、臨時に社長になったようなものだ。にもかかわらず、「乗っ取り」などと非難されずに済んだのは、亡き会長の息子(於次丸秀勝)を養子にしていたからである。
そこで改めて、秀吉の子どもと、この於次丸秀勝について紹介しておこう。