さて、二月二十九日には、前田利家が病を押して、伏見の家康を訪ねてきたという。利家は五大老の一人であり、秀頼の傅役(もりやく)でもあった。おそらく、今回の騒動のことについて二人は話し合ったのだろう。二人は険悪な空気ではなく、親密に話し合いをしたという。三月十一日には、今度は家康が大坂の利家屋敷を訪れ、会談している(これは、利家の病気見舞いでもあった)。家康の無断婚姻糾問騒動は起請文の提出という方法により解決された。政争は収まり、一件落着と思いきや、ある出来事により、再び政局は動き出すのである。
石田三成襲撃事件に見る家康の離れ業
慶長四年(一五九九)閏三月三日、豊臣政権の「五大老」の一人・前田利家が病死した。利家の死は、落ち着いていたかに見えた政局を再び動かすことになる。利家の死の翌日、豊臣系武将七人(細川忠興・蜂須賀家政・福島正則・藤堂高虎・加藤清正・浅野幸長・黒田長政)が、大坂にいた石田三成を襲撃したのだ。
三成も豊臣系武将であり、この事件も大きく言えば「仲間割れ」とも言えるが、三成と七将は犬猿の仲だったとされる。彼らのあいだに何があったのか。その要因は、朝鮮出兵にあったという。
慶長二年(一五九七)の年末から翌年(一五九八)の初め、加藤清正・浅野幸長らが籠もる蔚山城は、明・朝鮮の大軍に包囲され、飢餓状態にあった。しかしそこに、日本側の援軍が来るとの情報があり、包囲軍は退却を始めるが、日本側の武将は徹底した追撃戦を行わず、多大な戦果を挙げることはできなかった。そればかりか、その後、戦線縮小を考えるようになるのだ。これは、強硬な豊臣秀吉の意向と相容れぬものだった。
日本側武将の動きは、石田三成の目付(監察官)から秀吉に伝えられ、彼らは処罰されることになる。蜂須賀家政・黒田長政は謹慎、領地の一部没収。加藤清正・藤堂高虎らは厳しく糾弾された。このことが、三成への恨みに繋がったと言われている(しかし、七将全員が、朝鮮出兵に関するこの件で、三成を襲撃したわけではない。細川忠興や福島正則は無関係であった)。
七将による襲撃を事前に察知した三成は、この後、ある行動をとるのだが、その行動に関しては、三成は伏見の徳川家康の邸に逃げ込んだと長く主張されてきた。だが、そうではないことが今では明らかになっている。