失業率は高いほうが正しい?!
もちろん、そんな新しいライフスタイルにシフトすることは、そう簡単ではない。仕事と家庭で忙しい日々を送るビジネスパーソンが、この流れについていこうとすると、現実的には相当ハードルが高い。だからこそ、平日の夜と休日(いわゆるナイト&ホリディ)を使って、どれだけこの新しい動きにかかわっていけるかが問われる。
僕の周りには、NPOの事務局とコンサルタントを兼務する人、起業や海外移住、主夫や主婦と同時に企業の問題解決を担う人などがたくさんいる。いわゆる「デュアルライフ(2拠点生活。都市と農山漁村の両方で暮らすこと)」「パラレル・キャリア(現在の仕事以外の仕事や非営利活動に参加すること)」を実現している人たちだ。彼らは一様に、スキルと知識と経験を土台とした生き方を実現している。
それでも新しい時代に追いつく準備の時間がないというならば、一時的に、ニートや浪人時代を送るという選択肢もあり得る。
日本でも中高年層の再就職ばかりか新卒者の就職先すらみつからないなど、失業は社会問題として取りざたされている。
だが、失業率が高いことは、本当に問題なのだろうか?
先進国では、人が生存するために必要なモノにはすでに余剰がある。生産過剰であることを前提とすれば、人も余ることになる。古典的な労働の意味(=生産)に立ってみれば、失業率が高いことはそれだけ豊かだ、ともいえる。
ヘリクツだとわかったうえで、僕は失業をあえて肯定したい。
そもそも日本のサラリーマンは、失業者や生活保護を批判するが、今の都会の大企業で本当に必要な仕事、付加価値を出している仕事は、多く見積もって4割程度だろう。もはや会社の多くは、価値を産み出す経済体ではなく、月30〜50万円の給与という名の年金を配る生活保護団体と化しているようにも見える。そんな組織を、銀行も政府も必死になって支えている構図だ。
ではなぜ、政府も国民もみな、雇用が大事だと言い続けるのだろうか?ケインズ的な経済における労働・雇用効果を信奉しているからだろうか?
当然、違う。
それは、みな時間を持て余すことを心から恐れているからだ。現代人が真に恐れているのは、飢えることではない。存在意義(アイデンティティ)を失うことだ。
出世、給料、売り上げといった従来の指標にコミットしていれば、生きる意味を失わずにすむ。その壮大な虚構のために、現代の多くの起業は存在している。理不尽な上司や非合理な業務がその存在を許されるのは、価値を創造する必要性がないからともいえる。