苦労のすえに入国許可も、カメラの持ち込みは禁止

開沼 なるほど。そうしたなかでも、北朝鮮との国交正常化を実現する糸口って少しでもあったんですかね?例えば、2002年からの小泉政権の対応に実はその可能性があったとか。少なくとも表面的には、政権・政府は解決に向けて外交を続けているわけですよね。

初沢 具体的には過去に2度ありました。1992年の金丸訪朝の時と、小泉元総理による2度の訪朝の時です。いずれもアメリカの強い反感を招いて頓挫してしまった。でも、2004年、被害者の家族を連れて帰って来た流れのなかで、丁寧に交渉を続けることで拉致被害者の再調査と国交正常化交渉を前進させることができたのでは、と私自身は思っています。 最初の小泉訪朝から10年が経ってしまった今、対話の糸口はどこにも見出だせない状況が続いています。

 拉致問題について言えば、戦争をするか、対話をするか、拉致家族と被害者が亡くなってしまい忘れられるか、選択肢は3つに1つだと思います。2006年、拉致問題で人気を博した安倍政権が誕生した時に、「拉致問題の解決とは何か?」というアメリカ側の問いかけに対する日本政府の見解として、拉致被害者全員の帰国、拉致問題の全容解明、実行犯の日本への引き渡しの3つを挙げました。この3つをもって拉致問題の解決であり、「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」と威勢のいい宣言をしてしまった。国内的には支持を得ましたが、外交交渉としてはほとんど破綻しています。高いハードルを作ってしまったことで、北朝鮮側は「日本とは話し合ってられん」と交渉のテーブルから完全に降りてしまいましたね。

開沼 博 (かいぬま・ひろし)
社会学者、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員。1984年、福島県いわき市生まれ。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。学術誌のほか、「文藝春秋」「AERA」などの媒体にルポルタージュ・評論・書評などを執筆。読売新聞読書委員(2013年~)。
主な著書に、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)など。
第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞。

開沼 日本にとっても高いハードルですね。「全員」「全容」「実行犯」を政府が定義しても、「もっと他にもいる・あるだろう」と。それで世論が納得するかは未知数ですし、何より時間が経っている問題のため、「全員帰国」というゴール設定自体が、両国にとっても当事者にとってもどれだけ実現可能なのかは不確かです。

初沢 そもそも、全員が何人なのかを日本政府は掴めていないので難しいですよね。事実が明らかになることは将来的にも難しいかなという気もします。ただ、拉致は明らかな国家犯罪です。昨年末に発売された蓮池薫さんの本を読んでもわかる通り、まだ確実に拉致被害者が残っているわけです。ご家族もかなりの高齢になってしまった。

 1人でも多く彼らを帰国させるためにはどうしたらいいかを具体的に探っていくことが政治本来の役割でしょう。経済制裁で追いつめても何1つ事態が動かないことは、この10年で実証されているわけですよね。しかし、一度振り上げてしまった拳を降ろすにはメンツが邪魔をするわけです。被害者の帰国よりも国家としてのメンツを優先しているのが今の日本政府。それでは被害者を見殺しにしているのと同じことです。

『隣人。38度線の北』(徳間書店)より
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「写真家としての自分に何かできることはあるかな」とうっすらと考え始めたのが2005年~2008年くらい、「よし、ちょっと本腰入れてやるか」と思ったのが2009年秋。政治的な意思決定で批判されるのはいつも政府やメディアですが、それを支えているのは世論です。極悪非道のイメージ一色になってしまった北朝鮮像を一度ニュートラルな地点に戻す必要を感じました。北朝鮮にも当然、メディアが伝えない人々の暮らしがあるはずだ。まずはそれを伝えることから始めよう、と。とはいえ、入国が許されるかは未知数でした。ダメ元で粘り強く交渉しようと覚悟を決め、総聯に企画書を直接持っていきました。

開沼 それは何で調べたんですか?タウンページとかに載ってるんですか?今はネットで調べれば出てくるのか。

初沢 う~ん、総聯の電話番号はどうやって調べたのかなぁ。とにかくアポをとって、イラクの写真集とびっしりと書いたA4で5枚の企画書を持って、「『隣人』というタイトルで写真集を出したいので、なんとか入国を認めてくれないか」と担当者に熱弁を振いました。対応してくれた総聯の人は熱心に話を聞いてくれて、「この写真集と企画書を本国に送るので回答をお待ちください」と笑顔で言われたものの、1ヵ月経っても2ヵ月経っても何の連絡もなく……。新聞社もテレビ局もフリーのジャーナリストも原則一切入れないという状況でしたから、事実上の門前払いだったのでしょうね。どうしようかなと思っていたところで、2009年の終わり頃に、日本語の図書を平壌外国語大学の学生に届ける活動をされている大学の先生に出会いました。

開沼 ほう、日本語の本が平壌の学生に読まれているんですね。そうでもしないと日本語を使いこなせる人材も育たないでしょうしね。その取り組みはその先生が始めたんですか?

初沢 たぶんそうだと思います。それで「北朝鮮に入りたいけど総聯には相手にされていません」と言ったら、「じゃあ、次に行く時に一緒に行きましょう」と仰っていただいて。それから半年後の春に彼らが行くことになり、先生の推薦もいただきながら申請を出しました。他にも、北海道新聞の記者とNHKの記者も申請を出していましたね。すると、NHKは最初からダメで、北海道新聞の記者はなぜかオッケー。僕はというと、「カメラマンは入れません」という回答が返ってきました。ただ、先生には本国と総聯相手に何度も粘っていただきました。結果として、「入国は認めるが、カメラは持ち込み禁止」ということになりました。

開沼 入国が許された北海道新聞の記者はどういうアウトプットをしたんですか?そもそも、なんで許されたんですかね?

初沢 その辺の基準は彼らも言わないんですよ。それまでの北朝鮮報道の内容を精査して決めているのでしょう。

開沼 調査報道のような体裁で入ったんですかね?

初沢 数回に分けて滞在記を載せていたように思います。