現在、パワハラ問題などで揺れる宝塚歌劇団だが、創設当初は「生徒」と呼ばれる少女たちが演じる無邪気さが売りだった。女優ではなく、無垢な女学生のカラーを前面に打ち出すことで小林一三は成功を収めたのだ。110年に及ぶ宝塚の変遷を追った。本稿は、2022年に刊行された周東美材『「未熟さ」の系譜』(新潮社)の一部を抜粋・編集したものです。
小林一三は「未成品」の存在意義を主張
歌劇団員は「女優ではなく女生徒」
宝塚歌劇団の創始者の小林一三は、正統なオペラの代替品として、不本意ながらお伽歌劇を上演していたというわけではなかった。むしろ、彼は、家庭向けの事業計画を徹底するために、お伽歌劇を積極的に上演すべきだと考えていた。
小林一三は、自らの宝塚少女歌劇を「未成品」としばしば表現した。幼稚で未熟な少女歌劇は、自分の理想の一部分さえも実現できていない「未成品」であり、そのことに満足しているわけではない。だが、そういう「未成品」が「時世の要求」となっており、「必要品」となっているのだと、小林一三はその存在意義を主張したのである。
日本の観客が求めているのは「未成品」であると直観した小林一三は、少女たちを「生徒」と呼び、彼女らの公演は学習成果の実演であることを強調していった。彼は、宝塚音楽歌劇学校の校長に就任して、勉強、服装、外出時のマナーなどあらゆる面で学校生活を管理し、厳しい風紀を保った。
少女たちは、高等女学校の女学生になぞらえられ、そうすることで、従来の温泉芸者や役者とは異なる演技者のステータスを得ることができた。少女たちは職業的な演技者ではなくあくまでも生徒であるという建前は、従来の演技者、とりわけ女優との差別化を果たすうえでも重要だった。当時、女優という職業は、スキャンダラスなもの、性的なもの、卑しいものとして蔑まれることが多かった。
そこで、宝塚の生徒たちは女学生のような良家の出身であり、セックス・アピールを伴わないことを前面に打ち出した。そして、小林一三は、退団後の少女たちにも、芸道に生きることを否定しないまでも、基本的には芸術的素養のある家庭の妻となり、母となることを期待した。
観客も、「彼女達は或る人の云ふ如く女優ではありません女生徒であるのです」(南雛作「彼女達の将来に就て」『歌劇』1919年4月)と受け止めていた。
宝塚歌劇団の有名な標語に「清く正しく美しく」がある。これは、独身の女性だけを演技者とする宝塚のコンセプトを表現したものとして、しばしば理解されている。