創設以来の逆風の中、再スタートを切った旧ジャニーズ事務所。創業者・ジャニー喜多川氏は、どのようにしてエンタメ界の頂点に君臨できたのか。ベールに包まれた米軍時代や野球少年らとの関わりから理由を探った。本稿は、2022年に刊行された周東美材『「未熟さ」の系譜』(新潮社)の一部を抜粋・編集したものです。
日本のなかの「アメリカ」で醸成された
米国大使館で働く日系二世の野心
ジャニーズ事務所を生み出したのは、「アメリカ」だった。渡辺プロダクションと同様、ジャニーズ事務所もまた基本的には「米軍基地からテレビへ」という大きな枠組みの推移のなかで生み出されたと理解することができる。
ただし、渡辺プロダクション創業者の渡邊晋が占領期からすでに音楽・マネージメント活動を始めていたのに対して、ジャニーズ事務所は1950年代末から1964(昭和39)年の東京オリンピックの期間に胎動し、やや遅れてテレビ芸能界に参入していった。
東京・原宿駅から徒歩数分のところにある代々木公園には、かつてワシントン・ハイツと呼ばれた米軍住宅地区があった。金網で仕切られたフェンスの向こう側には、色とりどりの屋根、白壁の瀟洒な家屋が並び、緑と芝生に包まれた豊かな「アメリカ」が、まるで映画セットのように広がっていたのである。
ジャニーズ事務所を創立したジャニー喜多川は、このワシントン・ハイツ内の宿舎(後の国立オリンピック記念青少年総合センター宿泊棟)の4階の一室で暮らしていた。
ジャニー喜多川(喜多川擴、John Hiromu Kitagawa)は、アメリカ国籍をもつ日系二世であり、1931(昭和6)年、ロサンゼルスの高野山米国別院の喜多川諦道の息子として生まれた。喜多川諦道は、大阪からアメリカに渡り、1923(大正12)年から10年余りのあいだ、当院の主監として米国大師教会を率いた。
この父は、芸能にも通じ、自身を「やくざ」や「遊び人」と呼ぶほどの型破りな人物だった。なかでも、彼がボーイスカウトを組織したことは当地でも広く知られ、ジャニー喜多川の兄・喜多川真一も、幼少期にボーイ隊のマスコットとして活動していた(「KashūMainichi Shinbun」1933年8月17日)。
1962(昭和37)年、このボーイスカウトは日本を訪れて皇太子と面会、甲子園の開会式やNHKの番組にも出演を果した(高野山米国別院50年史刊行委員会『Koyasan Buddhist Temple 1912―1962』高野山米国別院)。1933(昭和8)年8月、喜多川一家は日本に帰国、太平洋戦争時は和歌山に疎開した。戦後、ジャニー喜多川はアメリカに戻り、アメリカ人として朝鮮戦争に従軍、軍の学校で朝鮮語を学んだ。