観客たちは、新生宝塚の西洋風のスペクタクルに違和感なく感情移入できるようになり、西洋的なテイストを強く内面化していった。日本を題材にすることがあっても、天平・平安の王朝物語など古典文学を題材にした「純日本物」が好まれた。「西洋物」であれ「純日本物」であれ、現実から徹底的に遊離し、極端に純化された圧巻の夢の世界を作り上げていることが重要だった。
反対に、小林一三が理想とした和洋折衷は、次第に観客には受け付けがたいものになった。ファンたちは、久松一聲流のお伽歌劇ではなく、白井レヴューの方こそ「宝塚情緒」が現れていると感じるようになっていった(袴田麻祐子「「日本物」と「西洋物」」青弓社編集部編『宝塚という装置』青弓社)。
客層の変化は、劇団側が望んだものというよりも、興行的成功によるなし崩し的な結果だった。大劇場の客席を埋め尽くしていく女学生たちを、小林一三も受け入れざるをえなかったのである。
やがて小林は「家庭本位」に代わって「清く正しく美しく」の標語を掲げるようになっていった。レヴューといえども怪しげなものではなく純粋な少女によるものだという売り込みが強調され、純粋さに新たな意味合いが付け加えられていった。「家庭本位」という新しい家族生活の夢は、女学生たちの夢へと読み替えられていったのである。
周東美材 著
以上のように阪急鉄道を通じた空間再編と劇場建設を通じて、多くの日本人には未知なる文物だったオペラが受容されていった。異文化受容の試みとして、まずは子どもが演じるための和洋折衷のお伽歌劇が発案され、無邪気さや素人っぽさ、「家庭本位」という性格が前面に押し出した。
だが、こうした子どもや家庭向けの歌劇は、1930年代に入るとレヴュー路線に転轍し、家族の娯楽から女学生のような女性ファンの娯楽へと変質していった。以降、宝塚はレヴュー団体として歩を進め、日本社会に根を下ろしていった。
その一方で、異文化の衝撃を受け入れ、日本独自のパフォーマンス集団が形成されるまでの一連の変容プロセスが、子どもという存在によって媒介されていたことは、やがて忘却されていったのである。