その結果、「モン・パリ」はただちに再演されるほどの好評を博し、小林一三もこれに気を良くして「宝塚少女歌劇の行く道」が見えたと興奮を隠さなかった(小林一三「モン・パリよ!」『歌劇』1927年10月)。
岸田辰彌に続いた白井鐡造は、岸田以上の高い人気を得て、1930年代以降のレヴュー・スタイルの基盤を形作った。白井もまた欧米に派遣され、その外国仕込みの演出術によって、舞台上に「パリそのもの」を思わせる夢の世界を紡ぎ上げていった。
彼は1930(昭和5)年に、有名な《すみれの花咲く頃》を主題歌にもつレヴュー「パリゼット」を公演して以降、「ローズ・パリ」、「サルタンバンク」、「ブーケ・ダムール」などを創作し、ストーリー性を重視したレヴューが観客の興奮を煽った。
「パリゼット」以降、宝塚は照明も化粧法もがらりと変わったが、特に、恋愛物語を定番化していったことは従来の「家庭本位」のお伽歌劇路線の宝塚とは一線を画した。
異文化受容の衝撃をやわらげた
媒介者としての宝塚の子どもたち
1930年代以降の宝塚のレヴューは、パリの影響を受けるようになっていったが、アメリカのショー・ビジネスからの影響もまた甚大であった。演出家の宇津秀男と岡田恵吉は、アメリカへ派遣されて、本格的なジャズを持ち帰った。
これ以降も、宝塚は、異文化受容の窓口となって、シャンソン、ジャズ、ラテン音楽など世界の最新ポピュラー音楽を貪欲に吸収し続けた。巨大な資本を背景にした宝塚は、作家たちを相次いで欧米に派遣し、教育できた数少ない民間の作家養成組織のひとつとなっていった。
「パリゼット」によってレヴュー時代が幕を開けると、客層も変化していった。男性優位だったファン層は1930年前後から女性優位に逆転し、早ければ1928(昭和3)年から、遅くとも1934(昭和9)年には女性、とりわけ女学生が主要な客層を占めるようになっていった(貫田優子「女学生文化と宝塚少女歌劇」津金澤聰廣・近藤久美編著『近代日本の音楽文化とタカラヅカ』世界思想社)。歌劇の国民的浸透の基盤とされた家庭は、女学生ファンへと取って代わられたわけである。