だが、1910年代から20年代にかけての宝塚少女歌劇をめぐる記事や批評のなかに、このフレーズはまず見当たらない。というのも、この標語が定着するのは、1934(昭和9)年ころのことだからである(川崎賢子『宝塚』講談社、77頁―79頁)。

 ある観客が「宝塚無邪気な足を高くあげ」(船頭子「高声低声」『歌劇』1921年7月)との川柳で表現したように、初期の宝塚少女歌劇とその生徒を形容する語として頻繁に用いられたのは、「無垢」、「無邪気」、「可愛い」、「あどけない」、「素人」、「幼稚」、「子どもらしい」、「家庭本位」、そして「未熟」といった語であった。

陳腐化した「宝塚情緒」への新風
30年代からレヴュー路線が主流に

 和洋折衷の無邪気なお伽歌劇は、未成品ながらも、西洋直輸入のグランド・オペラや他の劇団とは異なるものとして、独自の「宝塚情緒」や「宝塚型」に魅力が見出された。

 だが、一部のファンにとっては、「宝塚型」とは、代わり映えのしなさ、陳腐さ、退屈さといった否定的な意味合いでも使われるようになった。また、初期に入団した少女たちが肉体的に成熟していくにつれて、「『宝塚型』といふ言葉は、勿論よい意味にもつかはぬでもないが、どうしても早や少々薹が立つて来たのを意味してゐる」(綿谷朝之介「宝塚雑筆」『歌劇』1920年8月)と見なされるようにもなった。

「宝塚型」を維持するべきか打破するべきかで、ファンたちの意見はふたつに割れた(桑田透一「宝塚少女歌劇論――過去、現在及び将来に就て」『歌劇』1921年1月)。

 新局面を切り開くため、小林一三は、1921(大正10)年3月、2部制を採用し、少女をふたつの部に分ける方策に打って出た。これが後年の組分けの始まりであるが、第1部ではやや高度な歌劇、第2部では従来の久松一聲流のお伽歌劇が演じられた。

 宝塚に転機をもたらしたのは、1927(昭和2)年9月に初演された「モン・パリ(吾が巴里よ)」だった。「モン・パリ」は、洋行帰りの岸田辰彌が創作したレヴュー形式の歌劇で、神戸、上海、エジプト、マルセイユ、パリなどと次々に舞台が移り変わるスペクタクルを観衆に見せつけた。

 岸田辰彌は、欧米に派遣され、遊学中にレヴューの流行を目の当たりにした。彼はこのレヴュー・システムにヒントを得て、かなりの冒険であることを承知で、試みにこれを導入した(岸田辰彌「「吾が巴里よ」を上演するについて」『歌劇』1927年9月)。