笑顔のシニア女性写真はイメージです Photo:PIXTA

誰にでも訪れる「老い」。人間、誰でも最後には「ただ生きているだけ」の存在になる。しかし、たとえそうであっても「家事」をして自分の面倒を自分でみることができたなら、人は最後まで「幸せ」でいられるのだ。本稿は、稲垣えみ子『家事か地獄か 最期まですっくと生き抜く唯一の選択』(マガジンハウス)の一部を抜粋・編集したものです。

一人暮らしの老いた父がポツリ
「生きている意味がわからない」

 認知症になって家事ができなくなり、日々混乱の中を格闘し続けた母が亡くなって7年経ち、今度は一人暮らしになった父が鬱々とし始めた。

 もともと趣味の多い人である。会社を定年退職する直前からアマチュア合唱団に入って定期的に本格的なコンサートにも出て、高校の同窓生が定期的に集まる会の世話役も買って出て、気の合う仲間で難しい本を果敢に読む「読書会」のメンバーでもある。生前の母は「お父さんはいつも家にいなくて私はほったらかし」と嘆いていたが、母が亡くなった後も父が気丈に一人暮らしを続けることができているのは、その長年培った趣味のおかげであることは間違いない。

 それを思うと、「老後の生きがい」をコツコツと意識的に築いてきた父はすごいなあと思う。高齢化時代の鏡といえるかもしれない。

 ところがコロナで全ての活動が自粛を余儀なくされた頃から、歯車が狂い始めた。

 長くこもっていたせいか足腰が弱くなり、体力の限界を理由に合唱団の一つをやめざるをえなくなった。他の活動も再開しようとするたびに、コロナの波がやってきて思うに任せない。ケアマネさんの紹介で通い始めたデイサービスで、歌を皆で歌ったりハンドベルで合奏したりすることを楽しみにしていたのでああよかったとホッとしていたのだが、近頃ではそれにも気が乗らない様子。

 理由を聞くと、「すごく良くしてもらっているけれど、結局はこっちが主体的に何かをするわけじゃない」「何から何まで向こうが準備してくれる。ありがたいけれど、それだけだと生きている意味がわからない」という。

「ただ生きているだけ」に
何の意味があるのか?

 いつも前向きな父の暗い告白に、思わずドキリとする。なるほど心の問題は一筋縄ではいかない。会社員を引退してからも趣味に交流に勉強にと「主体的に活躍」することを追求してきた父にとって、老人福祉という「与えられたこと」に生きがいを見出すのは、いざとなってみればどうしようもなく空しいことなのかもしれない。