父はきっとこう言いたいのだ。
「ただ生きているだけ」の自分に、一体何の意味があるのか?
そしてその父の苦しみは、実は誰にとっても他人事ではないのではないだろうか。
人の役に立つことができず、尊敬も尊重もされず、いわゆる「社会のお荷物」のような存在になってしまったら……?それは現代を生きる誰もが「それだけは避けたい」と恐れている事態だ。ますます効率化が叫ばれる世の中で、そんなふうに「ただ生きているだけ」なんて、ダメなこと、何の価値もないことだと、いつの間にか誰もが当然のように考えるようになっている。
だから老いも若きも皆必死になって、自分はそんなダメな存在じゃない、自分は「何者か」であり「世に必要とされる存在」なのだと証明すべく、日々擦り切れるほど頑張っている。人生は頑張り続ける永遠のゲームのよう。それだけでも十分キツイが、さらに恐ろしいのは、どれほど頑張って輝いたとて、いずれその恐怖は、年を重ねればどんな人の元にも必ず訪れるということだ。人生の最後にもれなくそんな恐怖が付いてくるなんて、何ちゅうひどい話だと思うけれど、それが現実なのだ。誰だって最後の最後は「ただ生きているだけ」の存在になっていく。勝ち逃げはない。もちろん私だってそうだ。
私はその時、何を思うのだろう。体も頭も衰えて、もちろん本やコラムも書けなくなり(今だってギリギリです) 、となるとこれといって何ができるわけでもなく、相変わらず一人ぼっちで、ヨタヨタして、でもただ死んではいないというだけの存在になった時、日々生きていくことにどんな意味があると私は思うのだろう?
で、ハッとしたのだった。
私は「ただ生きているだけ」であっても、自分にできるであろう楽しいこと、やりがいのあることを思い浮かべることができたのだ。
例えば……。
いつもの小鍋でご飯を炊くこと。
残り物のジャガイモと乾燥わかめで味噌汁を作ること。
汗臭い下着やシャツをタライでじゃぶじゃぶ洗って干すこと。
絨毯をホウキで掃いてたくさんホコリを集めること。
……そう、私には家事があるではないか!