直木賞作家・今村翔吾初のビジネス書『教養としての歴史小説』(ダイヤモンド社)では、教養という視点から歴史小説について語っている。小学5年生で歴史小説と出会い、ひたすら歴史小説を読み込む青春時代を送ってきた著者は、20代までダンス・インストラクターとして活動。30歳のときに一念発起して、埋蔵文化財の発掘調査員をしながら歴史小説家を目指したという異色の作家が、“歴史小説マニア”の視点から、歴史小説という文芸ジャンルについて掘り下げるだけでなく、小説から得られる教養の中身やおすすめの作品まで、さまざまな角度から縦横無尽に語り尽くす。
※本稿は、『教養としての歴史小説』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。
歴史に学ぶ“引き際”
経営者が歴史の偉人に学ぶべきは、引き際です。
早い段階から権限を移譲し、余計な口出しはせず、後を託せる状況になったら完全に身を引く。
いってみれば経営者としての“終活”です。
武田信玄の引き際を
反面教師にする?
この終活について、戦国武将はたくさんの教訓を示しているのに、いまだに日本の経営者は同じような間違いを繰り返しています。
いつまでも肩書きや権威にこだわっているというより、仕事と別れるのを寂しく思う人が多いのかもしれません。
武田信玄はさまざまな本で英雄として描かれていますが、後継者へのバトンタッチは恐ろしく下手でした。そのせいで、せっかく積み重ねてきた業績を台無しにしています。
カリスマ武将の
事業継承の難しさ
信玄は嫡男(正室の生んだ男子のうち、最年長の子)である武田義信との関係をこじらせ、最終的に自害を命じたともいわれます。
そして四男の武田勝頼が当主となるわけですが、信玄は勝頼を正式な跡継ぎとはせず、勝頼の子である信勝が16歳になるまでの後見役に据えました。
結果的にこの判断が、信玄の死後に武田家の弱体化を招き、勝頼は「長篠の戦い」で織田信長・徳川家康連合軍に惨敗を喫してしまうのです。
織田信長も失敗した
承継問題
織田信長も後継者問題において、結果的にはしくじっています。信長は信玄とは違って早くから嫡男・信忠を後継者に定め、家督を譲った上で経験を積ませます。
しかし、彼の天下とりは「本能寺の変」によって潰えました。このとき、信忠は信長と同じく京都で明智光秀軍と戦う選択をし、自害に追い込まれています。
あの局面では、捕まろうが無様であろうが、1%でも可能性があるなら、信忠は逃げるべきでした。
その選択をしなかったという時点で、信長は帝王学の伝え方を失敗したといわざるを得ません。