国際的な動向である「問題解決型学習」の重視

 私が神戸大学で働き始めて、早25年が過ぎた。最初の所属は、教育学部を前身とする発達科学部だった。そのうち、大学教員は研究組織である大学院組織に所属し、教育組織である学部に出向いて授業するスタイルになった。2017年には、発達科学部が国際人間科学部になり、現在、私は、その国際人間科学部の学生とよく接している。

 国際人間科学部では、教育学、心理学のほか、芸術やスポーツなど、人間を深く理解する学問に触れることができる。また、環境問題や人権問題などの、人類が直面している課題に関わる内容を学ぶことができる機会も充実している。そのため、この学部には、感受性が高く、人間に興味があり、困難を抱えている人たちの支援や環境問題解決などに熱意を持つ学生が集まってくる伝統がある。

 だから、学生たちの多くは、さまざまな社会の問題にアンテナを張り、自分がその問題の解決にいかに貢献できるかを考えようとする構えで授業を受講している。そうした健気で頼もしい学生たちが集まってくるのは、国際人間科学部の特徴によるところと、高校までの教育の成果によるところがあるように思う。

 この四半世紀の間に、学校教育は「問題解決型学習」を重視するようになってきた。現実の問題を解決しようとする過程で効果的な学びが生まれると考えるのが、問題解決型学習である。例えば、学校と企業が連携して、学生たちに商品開発の課題を提示する。すると、学生たちは、新商品のアイデアを出すだけでなく、顧客のニーズを考え、原価計算や売り上げ予測を立て、アイデアの裏付けを集め、その魅力を他者に伝えようと努力する。数学や国語や社会といった教科の要素が、現実の問題解決の過程に含まれており、問題解決に即して学ぶことで、生きた知識を得ることができるのである。

「問題解決型学習」の重視という流れは国際的な動向でもある。例えば、OECDは「エージェンシー」という概念を使う。新しい未来社会をつくっていく人間が「エージェント」であり、「エージェント」に必要な力が「エージェンシー」というわけだ。学生たちは、世界をよりよいものにしていく担い手なのだから、その過程にある学び自体にも学生たちの意思が反映されていなければならない、というのが「エージェンシー」の考え方だ。

 一昔前の学校教育では、現在学んでいることが、将来どのように役立つのかという説明もないまま“覚えろと言われたものをひたすら記憶するような学び”が当たり前だった。それに耐えることができたのは、授業の先にある、進学や就職といった個人的な成功を目指していたからだろう。いまでもそうした状況がなくなったわけではないが、それでも、問題解決のエージェントとして働く主体を形成するための教育というビジョンが共有されるようになってきた。

 問題解決型学習に親しんだ学生が増えている点で、学生の学力の質は上がったと言えるかもしれない。しかし一方で、学生のメンタルが弱くなってきていること、不登校の子どもや青年の数が過去最多を更新していることなど、若者たちの声なき悲鳴も、私の耳にひっきりなしに入ってくる。もしかすると、学生たちの優秀さは、子どもや青年を傷つけるシステムを代償として成り立っているのではないだろうか、という疑念さえ湧いてくる。

 そのような疑念が生じるのは、大学から求められる授業の作法に、私自身が息苦しさを感じるようになっているからかもしれない。例えば、シラバスの書き方についての細かい指示、「シラバスどおりに授業を進めるように」という要求、「A評価は受講生の1割未満に」といったような成績の付け方の厳格化、授業時間数の管理の厳格化、学生に授業評価を求める学期末の光景などである。

 私がこうした授業管理に問題を感じるのは、管理が進行すればするほど、教員と学生が契約的な関係になっていくからである。学生は、「授業」という商品を購入して、その商品の満足度を評価し、教員は、その商品の満足度を保証するために「シラバス」という商品内容表示を行い、その表示に偽りがないように授業を遂行する。このような契約関係のもとでは、教員はシラバスに書かれていることを超えて学生に寄り添おうとはしなくなるし、学生は他律的で受動的な学び方を持続させてしまう。私は、授業は“人と人との人格的な関わりの場”だと思うのだが、そのような考え方は時代遅れなのかもしれない。