大学教育は学生の自律性を何よりも大切にすべき

 学生が、親や先生(教員)の期待に応えようとするのは望ましいことだが、それが行きすぎると他律的な人格が形成されてしまう。他者の期待に応えることばかりに価値を置くと、自分が何をしたいのか、自分がどのような人間になりたいのか、という思いを見失う。他律的であることのリスクは、自分に価値を見いだせなくなっていくことにある。私が関わっている学生の中にも、他律性の目立つ優秀な学生がいる。親や先生の期待に優等生として応えながら育ってきたからこそ他律的になってしまっているのではないか、と思うこともある。

 私自身も、学生たちに、社会の発展や人類の繁栄に貢献する人間に育っていってほしいと期待をかけながら接している。けれども、教員の期待に応えるなどということは、学生にとっては取るに足らないことでよい。それよりも、学生時代だからこそできるさまざまな経験を背景にして、自分の内側から突き動かされる動機に従って行動してほしい。

 私は、大学教育は学生たちの自律性を何よりも大切にすべきだと思う。さまざまな経験を積み重ね、その経験の中で抱いた感情や経験から得られた気づきを大切にしながら、自分が社会の中で発揮すべき力を明確にしていくことが、大学教育の中で大切にされるべきだ。「よい成績をとろう」という学生の動機づけを強化するような管理、授業への出席や予習復習をした時間の調査など、学生の行動を形式的に縛るような管理は、大学教育にはふさわしくない、というのが私の考えである。

 学生が自律的になり、能動的になったとき、大学は学生に対して大きな力を発揮することができる。大学には、学生が求めてきたことに応えることのできる学問の知のストックがある。しかし、そのようなストックのほとんどは、他律的で受動的な学生にとっては意味がない。大学で学ぶ内容の多くは、暗記すれば力になるような知でもないし、教員に教えてもらうだけで身につくようなものでもない。

 大学教員の多くは、一般の人にとってはどうでもいいようなことを夢中になって追究している。大昔の研究者が語った一言にこだわったり、動物の行動を観察するために野山を駆け回ったり、答えがあるとも思えない問いに大まじめに向き合ったりしているのだ。それが研究というものだし、そうした研究の成果の多くは、すぐに実生活に役立つようなものではない。だから、他律的で受動的な学生が、そのような研究成果の一端に接しても、「おもしろい」と感じることはあるかもしれないが、意味を理解するところまでいかないだろう。研究成果の真の意味は、「なぜ、世の中はこうなっているのか?」といった切実な問いを発することで浮かび上がるものであり、「人間はなんのために生きているのか」「宇宙はなぜあるのか」「生命とは何か」といった問いがあってはじめて、大学の知のストックが生き生きとした意味を帯びるのである。自律的で能動的な学生でなければ、そのような切実な問いを立てて学びに向かうことはできない。

 学びには、積み木を積み上げていくように知識や技術を高めていくような学び(形成的学習formative learningという)と、積み上げてきた積み木をいったん崩して違う形に積み上げるような学び(変容的学習transformative learningという)がある。大学教育は、高校までの学びをいったん崩して、自分なりの世界観を再構成する「変容的学習」の要素が強いと思う。しかし、変容的学習が生まれるためには、学生たちが大学に入学するまでに身につけてしまった他律的で受動的な学びの態度をいったん崩さなければならない。だからこそ、大学に入ってきた学生には、いままでの学びを積み重ねてきた自分を振り返り、新たな自分を柔軟に再構成する「学びほぐし(unlearning)」が必要だ。「教えてもらう」自分、親や周囲の人たちの期待や社会に普及している価値観から自由になることが、大学での新たな学びの基盤になるのだ。

 学生たちが変容的学習や学びほぐしをするためには、学生それぞれにとって“心が動く経験をベースにした学び”を保障する必要がある。大学は、学生たちが心を躍らせる事実や知見に出会う機会を増やすことにフォーカスして、学生たち個々人のこだわりに基づいた探究の自由を保障していくことを大切にしていくべきだろう。カリキュラムと成績で学生を縛るのは、ほどほどにしたほうがいい。