詩人の野口雨情が、「しゃぼん玉」の詩を発表したのは、大正11(1922)年の『金の塔』11月号。『金の塔』は仏教雑誌だった。それがまた「しゃぼん玉」と、はかない人の命を合致させた。
詩が発表された翌年には、中山晋平が曲を付け譜面集『童謡小曲』第3集に掲載している。その可愛らしい歌は、またたく間に愛唱され今なお子どもが大好きな歌のひとつになった。しかしその裏側には悲しみが潜んでいた。
明治41(1908)年春3月、当時北海道の小樽で新聞記者をしていた雨情は、最初の妻である、ひろとの間に生まれた長女のみどりを亡くしているのだ。それも生後わずか8日目。まさに、「しゃぼん玉消えた。飛ばずに消えた。生まれてすぐに、こわれて消えた」ではないか。
その頃はまだまだ医療が発達しておらず、薬も少なかった。抵抗力がない子どもは、すぐ死んでしまう例がよくあった。さらに、たとえ「屋根まで飛んだ」としても、「こわれて消えた」命も多かったのだ。
抵抗力がつくまでは、子どもは「神様のもの」だと考えられていた時代でもある。長女みどりの13回忌の年にこの詩は書かれていた。
それも仏教雑誌に掲載したのは、子どもを死なせてしまった後悔や苦悩、そして子どもの成長を祈ってやまない親の心があったからではないか。
合田道人 著
いや、自分の娘だけではない。隣近所で亡くなってゆく子どもたちも多かった。この詩はそんな子どもたちへ贈る鎮魂歌だったのである。「あの世へ行っても楽しく遊べ。大好きだったしゃぼん玉で」。そんな気持ちではなかったのだろうか。
だからこそ雨情は詩に願いをかけた。「風、風、吹くな」と。世間の無情な風よ、どうぞ吹かないでおくれ。そうしてくれなければ、屋根まで飛ぶ前に命がまたひとつ消えてしまうから。
この歌が生まれた大正12(1923)年9月1日、関東大震災が起こる。屋根まで飛んでいた、子どもたちさえ多く犠牲になった。この歌に秘められた深い意味は、命のはかなさ、もろさであり命の尊さなのである。