臓物を投げつける、局部を出す
無法地帯のパンクライブ

牧村 それからロフトはパンクの中心地となり、たとえばブルーハーツが80年代半ばに登場したときはロフトを根城にしていましたね。当時はまだ荒れた客ばかりじゃなかったと思いますけど。

平野 フリクションやリザードといった東京ロッカーズの時代はまだおとなしかったよ。そこからだんだんハードコアへ移っていくんだけど、バンドが消火器をぶっかけたり、客席から傘が飛んできたり、あれは面白かった。僕はその辺りからパンクの面白さに気づいて、その後、スターリンやじゃがたら(のちのJAGATARA)のライブを観て、とにかくその凄まじいパワーにぶっ飛んだ。これが本物のロックだ、ニューミュージックなんてもう時代遅れだと思いましたね。

 それ以降、臓物を投げつけようが局部を出そうが好き勝手にやってもらって構わないということにした(笑)。他のライブハウスはみんな怖がってパンクに手を出さなかったけど、ロフトは違った。それは一つには、僕がロフトなんて別に潰れたって構わない、どうせいつかは潰れるんだからと考えていたのもあったと思います。その後はARB、アナーキー、ルースターズ、BOØWYといった面々が台頭してきて、ヘヴィメタみたいな勢力が関西から出てきて、80年代の初めは面白いバンドがたくさんいてめちゃくちゃ面白かったですよ。その一連の流れを、当時の牧村さんはどう見ていたのかな? と思うけど。

牧村 面白いなと思っていましたよ。近寄りたいとは思わなかったけど(笑)。ただ、80年代の後半に、後に渋谷系と呼ばれる前衛的な音楽の源流……たとえばペニー・アーケードのようなバンドもロフトは受け入れていたんです。ペニー・アーケードの音楽はいわゆるギターポップと称されるジャンルだけれども、スピリチュアルな意味でのパンクをやっていたグループだったと言えます。そうしたバンドもフォローしたのは、やはりロフトの精神がパンクであり続けたからでしょう。

 パンク雑誌『DOLL』の編集に関わっていた黒ちゃんこと黒田義之さんは、「パンクとは見た目や形のことではなく、自分の生き方とかスピリットを指す」と話していましたが、まさにその通りだと思います。全国規模のメジャーではないけど、100人から300人の集客は確実にあるコア層こそ面白い、彼らが新しい時代を担うことを悠さんは直感で理解していたんですね。ライブ空間を提供し続ける持続性、偶発的に生まれる表現を見逃さない感性をロフトは兼ね備えていたんでしょう。

平野 まあ、こんな商売を50年以上続けてますからね。日本の企業存続率は50年後に0.7%しか残らないと言うし、たまたまついていただけですよ。