人のためになる、という幸せがある
小倉 幸せというと、どうしても思い出す大好きな言葉があります。イエローハットの創業者の鍵山さんの言葉です。よくぼくはいろんなところに書くんですが、鍵山秀三郎さんがおっしゃっている幸せには三つあるんですね。
まず、人にしてもらう幸せ。子どものころはお母さんにごはんを食べさせてもらう幸せ。お洋服を着られないからお父さんに着せてもらう幸せ。うれしいですね。
二つ目は、自分でできる幸せ。だれの手を借りなくても自分の力でひとり立ちできる幸せ。会社に入ると新入社員を卒業して、中堅社員になったときに自分の力、一人で仕事が築けたな、やれたな、という充足感。この幸せです。
そして三つ目の幸せだけ世界が違っていて、何かというと、させていただく幸せです。要は誰かの役に立つ幸せとか、人のためになる幸せ。この三つ目の幸せだけ次元が違って、自分だけが楽しい世界が前の二つだとすると、三つ目は人が幸せになって、人が喜ぶ顔を見て自分も幸せになる。人間は社会的動物だから人の役に立って、人に喜ばれることが最大限の幸せ。これは全員のDNAに書き込まれているし、そういう動物なんです。
ところが前の二つだけを追及しているうちはどうしても背反的になるというか、自分だけが気持ちよくなると、だれかが犠牲になったり、もしくは自分だけがトクをしてしまうという可能性がある。三つ目は全員がとめどなくハッピーの輪が広がっていく。究極の幸せですね。
ただそこにたどり着く過程で10代、20代のころは、僕は二つの幸せだけをむさぼっていました。だれかにしてもらう幸せをむさぼっていたし、少し仕事ができるようになると、自分でできる幸せを、むさぼっていました。でも、最初はそれでいいような気もします。そのうちに、だれかに喜ばれる幸せに気づいて、そのときに初めて無限にプラスの部分が生じていくようになるから。
最初からあまり三つ目を目指し過ぎると、変に人間できたふうな、中途半端でつまらない人間になっちゃう気がするんですよね。だから、一つ目と二つ目をまずはむさぼっていいと思う。
鍵山さんはさすがだなと思うのは、してもらう幸せ、一人でできる幸せ、この次にさせていただく幸せ、してあげる幸せ。この順番どおりにいけばいい、としていること。僕は今、この三つ目のループにようやく入ってきたかなと思っているんです。だから自分も幸せだし、人も幸せだし、人が喜んでくれるともっとうれしいしっていう、これが究極の幸せかなと思います。
木暮 僕は去年、アダム・スミスという経済学者の本を書いていたんですが、いろいろ研究をしていく中で、あらためて出会った言葉がありました。アダム・スミスは経済学の父と言われ、経済学者だと世の中的には見られてるんですが、もともとは哲学者なんですね。人間の幸せとは何かとか、国民の幸せとは何か、そういうことを考えている人なんです。そのアダム・スミスが言っているのが「人間の幸せとは健康で負債がなく、良心にやましいところがないこと」でした。
健康でなければ幸せにはなれない。これは非常にわかりやすいと思うんですね。あとは借金をして、毎日、追いかけられているような生活では幸せになれない。これもわかりやすいと思うんですね。借金取りが毎日、ドンドンドアを叩くような生活は幸せにはなり得ないと思うので。そして最後、良心にやましいところがない、というのは自分の心に背いていないということなんですね。
自分の良心に背いていない、自分の良心に照らし合わせて間違ったことをしていない。心穏やかに生活できている、というのが人間の幸せであると彼は言っているんです。それはすごく僕の中でしっくりきたというか、かなり印象に残って、今ではそれを考えて仕事をしています。