「水戸黄門」の水戸光圀は、越後のちりめん問屋の隠居を隠れみのにして、助さん・格さんという手練れの従者を連れて、日本各地の役人たちの不正・腐敗を正していく。毎回のクライマックスではちゃんばらとなり、助さん・格さんが徳川の家紋のついた印籠を掲げ、悪人たちが平伏するというのが、ほぼお決まりのパターンであった。

 対する「必殺」シリーズにおいては、「正義の味方」たちは、表の稼業とは別の、暗殺者としての裏の顔を持っており、悪人へのはらせぬ恨みをはらすよう金銭で依頼され、暗殺を実行する。金銭での依頼とはいえ、物語上は依頼者たちは悪人によってひどい目に遭わされたかわいそうな被害者であることが基本である。

「必殺」シリーズは音楽などの演出の水準も含めて、明確に西部劇が意識されている。つまり、主題的には、アメリカ的な「正義」のパターンを「必殺」シリーズはなぞっている。公の法では裁かれない「悪」を、法の外側に出ることで裁くというパターンである。

「水戸黄門」=「ウルトラマン」、「必殺」=「仮面ライダー」という共通性はこの概要だけでもかなり見やすいだろう。「水戸黄門」の底流に流れるのは、「お上」、政府や官僚組織への信である。もちろん、毎回の物語を駆動するのは各地方の役人の腐敗なのだが、それを正すのは超越的存在(水戸光圀)だ。正義は明確にその超越者の側にある。

 それに対して、「必殺」の世界では、そのような超越者の正義そのものがまず不調を来している。物語の肝は、悪が公的な裁きを受けないことだ。それゆえに、仕掛人/仕事人たちは、「法の外」に出ることによってこそ「自分たちの正義」をなせるのだ。

ちりめん問屋の隠居は副将軍に戻り
中村主水は仕置人の裏の顔を見せる

 また、「変身」の意味もそれぞれの作品群において異なっている。まずそもそも、この4作品はすべて、毎回の終わりの方で「変身」が行われ、悪が討たれるというパターンを共有している。だが、黄門/ウルトラにおける変身と、必殺/仮面ライダーにおける変身は異質だ。黄門/ウルトラの変身は「本来の超越的な権威への変身」である。水戸光圀はちりめん問屋の隠居、ウルトラマンはハヤタ隊員という「仮の姿」から、水戸光圀とウルトラマンという本来の超越的な権威へと変身する。