硬直した官僚組織に立ち向かう、強烈な個人の物語を、日本人は大歓迎する。半沢直樹や大門未知子の立ち回りに胸のすく思いをした向きは多いだろう。こうした作品に至るまでの日本ドラマ史において、決定的な役割を果たした4作を振り返ってみたい。※本稿は、河野真太郎『正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』(集英社新書)の一部を抜粋・編集したものです。
「大きな政府」の官僚的組織に
歯向かう個人の物語がウケた
日本では、コミュニティ対個人ではなく、官僚組織対民間の個人という対立が、物語の素材として独特の力を持っているように思われる。少なくとも、1990年代から2000年代にはそれが大きな力を持った。
典型的な作品は、1997年に放映された刑事ドラマ『踊る大捜査線』である。このドラマは、警察の官僚組織の矛盾を描いたことが独特であった。警察組織における官僚主義と縦割り行政、キャリア制度の問題を、元民間企業の敏腕営業マンであった織田裕二演じる青島刑事を主人公に描き出していく。
このドラマの重要な点は、ある側面ではそれまでの刑事ドラマの典型を脱して、かなり写実的に警察の捜査や組織を描きながら、同時にじつのところ、警察をあたかも企業であるかのように取り扱った点であろう。警視庁を「本店」、所轄署を「支店」と呼ぶのは、それを象徴している(実際にそのように呼ぶのかどうかは定かではないが、おそらくこのドラマ独特の発明である)。
それによって、『踊る大捜査線』は一種の企業ドラマのように観られた。2000年代に人気を博した池井戸潤の小説「半沢直樹」シリーズは『踊る大捜査線』に連なると見ていいだろう。つまりそこに共通するのは、「非効率的な官僚的組織に対して挑戦し、勝利する個人」という図式だ。ちなみにその医療ドラマ版が、『Doctor-X~外科医・大門未知子~』である。
そのような物語は、基本的に新自由主義の物語なのだ。新自由主義は、これまでの「大きな政府」による統治、それにともなう官僚制や官僚的会社組織を敵視し、非官僚的で柔軟な組織を肯定した。それを推進する理想的な主体はドラマ(劇物語)の中では、組織からはずれ、突出した能力を持つ「個人」ということになる。
官僚制を肯定するウルトラマンと
官僚組織を信じられない仮面ライダー
さて、時代的に少々勇み足に前に進みすぎたかもしれないが、そのような90年代から2000年代に至る前史を、「ウルトラマン」と「仮面ライダー」シリーズは構成している。そこに見られるのは、まずは官僚制の否定というよりは、官僚制を肯定したいというベクトルと、官僚組織を信じられないというベクトルの分裂、綱引きである。