家内を孤独にしたくない
生と死の間に愛を見つけて

 私は、自分が特に宗教的な人間だと思ったことがない。だが、もし死が万人に意識の終焉をもたらすものだとすれば、その瞬間までは家内を孤独にしたくない。私という者だけはそばにいて、どんなときでも一人ぼっちではないと信じていてもらいたい。そのあとの世界のことについては、どうして軽々に察知することができよう?

 まだこれほど衰弱してはいなかった頃、小鳥のような顔をした若い看護婦が来て、

「江藤さんは、毎日御主人がいらしていいですね。ほんとにラブラブなのね」

 と、感心してみせたことがあったらしい。

「……今だからそう見えるだけで、若いうちは毎日喧嘩ばかりしてたのよって、いってやったけれどね。あの子ヘマばかりして、落ち込んでは話に来ていたの」

 と、家内は、血圧を測りに来て病室を出て行ったその若い看護婦の後姿を、眼で追いながらいった。しかし、その視力が、既にひどく衰えていることを私は知っていた。

「今の若い娘は、こういうのを“ラブラブ”っていうのかね。はじめて聞いたな」

 と応じながら、私は実はそのときひそかに愕然とした。

 若い看護婦のいわゆる“ラブラブ”の時間のなかにいる自分を、私はそれまで生と死の時間に身を委ねているのだと思っていた。社会生活を送っている人々は、日常性と実務の時間に忙しく追われているのに、自分は世捨人のようにその時間から降りて、家内と一緒にいるというもう一つの時間のみに浸っている。だからその味わいは甘美なのだと、私は軽率にも信じていた。

 だが、いわれてみればこの時間は、本当は生と死の時間ではなくて、単に死の時間というべき時間なのではないだろうか? 死の時間だからこそ、それは甘美で、日常性と実務の時空間があれほど遠く感じられるのではないだろうか。例えばそれは、ナイヤガラの瀑布が落下する一歩手前の水の上で、小舟を漕いでいるようなものだ。一緒にいる家内の時間が、時々刻々と死に近づいている以上、同じ時間のなかにはいり込んでいる私自身もまた、死に近づきつつあるのは当然ではないか?