医療業界で長年コンサルティングをしてきた臼井正彦氏は昨年、がんを患った愛妻を看取った。医療のシステムを知り尽くしているだけに、公的保険では対象外となる治療も含めて“最適な選択”を自らコーディネートできる。そんな彼が妻を看取る道で選んだ選択は、意外なものだった。特集『後悔しない医療・介護』の最終回は、看取りのドキュメントをお届けする。(在宅医療開業・運営コンサルタント 臼井正彦、構成/医学ライター 井手ゆきえ)
標準治療のベルトコンベヤーに
乗せるわけにはいかない
2023年9月11日、50年以上連れ添った妻が逝った。享年74歳。
「お疲れさまでした。死亡を確認いたしました。よろしいでしょうか? 午後11時24分です」
当直の女性医師がモニターの心電図を確認して胸に聴診器を当てた後、儀式のようにペンライトをかざしながら瞳孔反射を確認してこちらに向き直った。
まだぬくもりが残る妻、恵美子の手をただ握った。いつも冗談のように「あなたの手が一番好き。あなたが死んだら、この手を剥製にして毎日眺めていたいくらい」と絡めてきた指はもう動かなかった。
がんとの闘いは20年1月に始まった。恵美子がちょっと深刻な顔をして肝臓エコー検診で「要精密検査」の結果が出たと言ってきたのだ。卵巣がんの疑いがあるという。本人は「何の症状もないのよね」というが、卵巣がんの初期は自覚症状がなく見つかったときはすでに手遅れという症例が多い。健康診断で早期発見なら逆に運がいいのだからと、1週間後に紹介された病院でMRI(磁気共鳴画像)を受けさせた。
翌2月上旬、2人そろって検査結果を聞きに行った消化器外科で、担当医に「早急に手術をした方がいい」と告げられた。そこからの記憶は曖昧だ。急激な変化に心が追い付かない一方、自分が冷静でいなければならないという焦りで事務的に対応していた気がする。精密検査から1カ月後に手術は行われた。
臓器のがんは原発巣、つまり最初にがん化した組織の“出自”で治療方針や使える抗がん剤の種類が決まる。正しい出自を知るには手術で摘出した組織を病理医の熟練した目で直接、確かめる病理診断が必要だ。
恵美子の場合、術前の診断名は進行卵巣がんだった。卵巣がんは難治がんだが、治療手段はある。しかし、確定診断の結果はさらに厳しいものだった。「病理検査の結果、虫垂がんのステージⅣ、希少がんと考えられます」と主治医から報告されたのだ。
抗がん剤を入れるためのポートを作ること、2週間に1回、外来で抗がん剤治療を行うこと、主治医は残酷なほどよどみなく治療方針の説明をかぶせてきた。ショックを受けた状態で治療薬の一覧表を受け取り、案内されるがままにふわふわとした足取りで院内の化学療法室の見学へと向かった。
このとき20年前の米国の病院視察で目にした外来化学療法センターの記憶がよみがえった。明るいオレンジ色のリクライニングチェアと温かみのあるベージュで統一された部屋は、快適で優しい気遣いを思わせる空間だった。しかし、恵美子と共に向かった先にあったのは、間仕切りカーテンに囲われたベッドがずらりと並べられただけの機能的だが快適さのかけらもない点滴室だった。
「これは違う!」。私は一瞬でわれに返った。肚の底から「受け入れられない」という怒りが湧き上がった。
このまま病状の整理もつかず、納得がいかないまま死を思って悲嘆に暮れる恵美子を、治療一辺倒のベルトコンベヤーに乗せるわけにはいかない。また、標準治療のみが選択肢ではないだろう。この日は「一度、冷静になりたいから」と何も決めずに病院を出た。