「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。
危機的状況に
置かれた長州藩
幕末、長州藩(山口)は江戸幕府と対立し、戦争が避けられない状況となりました。
雄藩(有力な藩)とはいえ、1つの藩にすぎない長州藩が幕府と戦うというのは、危機的状況といえます。
そうしたなか、長州藩のリーダーであった桂小五郎は、軍事責任者として、大村益次郎(1825~69年)を抜てきします。
異例中の異例の大抜擢
大村は、もともと長州藩周防の村医であり、武士ではないのですが、最先端の蘭学・医学を教えた大坂の「適塾」をトップで卒業し、宇和島藩(愛媛)に呼ばれて軍艦の造船に携わります。
西洋の軍事学にも詳しく、軍事技術の専門家として日本でトップクラスでした。
当時、武士階級でない人間を軍事責任者とすることは考えられませんでした。ところが桂小五郎は、大村益次郎の軍事専門家としての能力を評価し、異例中の異例で大抜てきしたのです。
コミュニケーションに
難ありの専門家
武士ではなく、剣道もできない。「こんな人が軍事のトップで戦争ができるのか」と周囲から思われかねません。
また、大村はコミュニケーション能力に難があり、まわりの人の反感を買うこともありました。
宇和島藩で軍艦の造船に携わった際、軍艦が進む姿を見て宇和島藩の人が感動していると、「船なので進むのは当たり前です」と言ったり、長州藩の村で医者をしていたころ、夏に村人から「暑いですね」と社交辞令で声をかけられると、「夏なので暑いのは当たり前です」と返答して唖然とさせたこともあったそうです。
協調性に欠ける専門家を
徹底的にバックアップ
そんな協調性に欠けるところのある大村でしたが、桂小五郎はその能力を最大限発揮させるため、徹底的に支援しました。
軍事責任者への抜てきとともに、武士としてとり立てることで、武士たちの反感をやわらげようと配慮したのです。
その後も大村と周囲との関係に気を配るなど、終始サポートし続けました。
高度専門人材の能力が
組織に栄冠をもたらす
そのような支援に守られた大村は、従来の武士の戦い方にとらわれない作戦を立て、長州藩は幕府との戦いに勝ちます。
その後も、明治新政府と幕府との戦いでは、軍事責任者として新政府を勝利に導きます。
とくに旧幕臣で構成された彰義隊との上野戦争(1868年)では、大村の作戦により、新政府はたった一日で勝利します。これには、大村の軍事技術が役立ったのです。
すべてはリーダーの
サポートがあってこそ
村医から一転して討幕軍の総司令官となり、明治維新の渦中で非業の死をとげた日本近代兵制の創始者である大村を描いた司馬遼太郎著『花神』では、桂小五郎が次のように語っています。
「維新は癸丑(嘉永6年=1853年)以来、無数の有志の屍の上にでき立った。しかしながら最後に出てきた一人の大村がもし出なかったとすれば、おそらく成就は難しかったに違いない」
しかし、おそらく大村だけでは、その軍事技術は活かしきれなかったでしょう。桂小五郎がリーダーとしてサポートし続けたからこそ、大村の軍事技術が活かされ、幕府に勝利できたのです。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。