石橋湛山、元首相にして競合誌の社長が「ダイヤモンド」誌上で唱えた“私見”出典:国立国会図書館
「ダイヤモンド」には1957年6月11日号から70年3月23日号までの約13年間、「私見」と題したコラムが掲載されていた。「財界、政界、学界の長老が警世的意見を掲載する」というもので、当時のそうそうたる面々が登場していた。連載スタートから約1年は、48年に首相として戦後復興をリードした芦田均、吉田茂、池田勇人、佐藤栄作ら歴代首相の御意見番となった経済評論家の木内信胤、法学者で「時事新報」の社長兼主筆も務めたジャーナリストの板倉卓造、世界で初めて人工雪の製作に成功した物理学者の中谷宇吉郎の4人が回り持ちで執筆。次のクールは第一生命保険、東芝の社長を歴任し経団連会長として「財界総理」と呼ばれた石坂泰三、渋沢栄一の孫で日本銀行総裁、大蔵相を務めた渋沢敬三、物理学者で連載当時は東京大学総長だった茅誠司、経済学者で元慶應義塾塾大学長の小泉信三といった具合だ。

 こうした執筆陣の中に石橋湛山(1884年9月25日~1973年4月25日)がいる。日本の電力の礎を築き「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門、医学者の都築正男、前出の小泉信三と共に、59年4月から9月までを担当した。石橋のプロフィールについては、当時の記事内に掲載されていたものをそのまま引用しよう。

「明治17年生まれ、75歳。山梨県出身。明治40年、早稲田大学哲学科卒業。新聞記者生活を経て東洋経済新報社に入り、経済記者として大を成し、同社を主宰して大いに経済評論の筆を振るう。戦後は政界に入り経済復興に力を尽くした。昭和21年、吉田内閣の蔵相に就任。昭和29年、鳩山内閣の通産相。鳩山氏退陣後、総理大臣として石橋内閣を組織したが惜しくも病気のため辞任。現在、衆議院議員、立正大学学長、東洋経済新報社顧問。」

 石橋は戦前から、軍部が進める植民地政策による大日本主義を批判し、小日本主義を訴え続け、反戦思想を内に秘めたリベラルな言論で知られた。55年に自由党と日本民主党が合同して自由民主党が結成されると、上記の通り、初代総裁の鳩山一郎に継ぎ、56年12月に第2代自民党総裁に選ばれたのが石橋である。国民からの人気も期待も高かったが、2カ月後に過労のため急性肺炎で倒れ、静養を余儀なくされる。政治的空白をつくらないとの決意の下、「政治的良心に従う」との言葉と共に潔く総裁を辞任。在任期間はわずか65日だった。そんな石橋は、「ダイヤモンド」59年7月25日号の「私見」で、政界の派閥抗争や、猟官運動(官職を得ようとして争うこと)を廃し、政治家も国民もデモクラシーの精神を取り戻せと説いている。首相という地位に恋々としなかった石橋ならではの主張といえよう。

 さて、石橋が記者、主幹、社長として言論活動の拠点とした「東洋経済新報」誌は、今も昔も「ダイヤモンド」とはライバル関係にあるが、ダイヤモンド社創業者の石山賢吉と石橋は、かねて交友関係にあった。55年の「東洋経済」創刊60周年記念号では、当時通産相だった石橋の求めによって2人の対談が実現。経済政策について議論を交わしている。また、首相退陣以降、石橋は療養を続けながらも中国やソ連といった共産圏との関係回復に積極的に取り組み、59年に党からの除名覚悟で“個人”として中国を訪問。周恩来首相と会談し、日中両国の友好親善を唱える共同声明を発表している。この際も、ダイヤモンドは「石橋湛山氏の中国訪問は有益」という社説を誌面に掲載(59年9月12日号)し、援護射撃を行っている。(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

大臣病に取りつかれた政治家
思い切って制度を変えてみては?

 政界の派閥抗争に対しては、いろいろの非難が行われている。正しい道に戻すには、思い切って、制度を変えてみるのも、一つの方法だろう。

ダイヤモンド1959年7月25日号ダイヤモンド1959年7月25日号

 例えば、小選挙区制にして、1区1人選出というようにすると、弊害もなくなるだろう。だが、これも過去の経験からいうと、少なくとも10年間は、かえって弊害が多いので、その良さが分かってくるまで、耐え得るかどうかが間題である。

 何が故に、激しい派閥抗争が起こるのかといえば、政治家が大臣病に取りつかれているからだ。大臣になるためにはどうしても有力なボスと結び付いている方が便利である。そこで派閥の争いが起こる。

 派閥抗争や猟官運動をなくすために、例えば、国会に議席を持つ者は大臣になれない、という制度を作ったらどうか。