いや、いくつになってもなんらかのシーンの先頭に立ってたり、なんなら牽引している人もいるけども、たいていは、ヤングなカルチャーや常識からはズレていき、古きものとして終わりを迎え骨壺に入る。

 私は今、自分が現代風俗と並走しきれなくなってきているのを物理的にも感じている。ゲームだって、もうFPSゲームとか目が痛くなっちゃってぜんぜんやりこみできないもん。まだそこまではいってないけど老眼とかになったら確実にプレイできなくなる。アイテム名の字とか状態異常のアイコンとかちっちゃくてさ......ほんとゲームって若者のためのメディアだよなと痛感。

 べつにいついつまでも流行に詳しくなきゃいけないことはないんだけど、先にも書いた通り職業的な不安がある。小説には若者を登場させねばならないときがあり、そのとき20年前の若者を出してしまって読者にズッコケられるチョベリバな事態は避けたいのだ。

「これはマジで笑っていいことなの?」
メディアの笑いの感覚についていけない

 だからごくたまに人んちとか、病院の長~~~い待ち時間に腰を据えてテレビを見るのだが、中でも一番齟齬を感じるのが「笑い」の感覚なのだ。そりゃショーワの時代からはだいぶマシになっただろうけど、未だに人の年齢やルックス、恋人のあるなし、婚姻関係、人種やセクシュアリティなどを「いじる」笑いがフツーに出てくるのだ。

 普段、自分が自分にとって心地良いインターネット環境をうまく構築しすぎていて、基本的に批判的文脈以外で差別的/蔑視的/嘲笑的な「笑い」のネタがほとんど目に入ってこないので、たまにナマのやつに触れるとぎょっとしてしまう。

 世の中、これで笑っていいことになってるの?マジで?というかんじ。

「笑い」とは何かについては、以前『早稲田文学』に原稿を依頼されてコラムを1本書いたことがある。そこでは「笑いというのは極めて社会的な行為であり感情だ。怒りや悲しみにはあまり説明が求められないが、笑いにはコンテクストがあり、時として解説が必要」みたいな内容を書いた。