また、いつも他人の失敗や不幸の情報を触れまわる人に対して、周囲は警戒するようになります。「自分のことも、あることないこと言われるかもしれない......」と思えば、安易に相談事もできなくなります。プライベートだって共有したくなくなり、孤立への道をひた走る末路が待っているのです。

 残念ながら、他人の不幸を見て安心感を得るのは、人間がもつ本質的な欲求です。現代のように、拡散力をもったネット上で、他人の不幸に興味関心を寄せる人が増える状況が続けば、人々の欲求に応じてマスコミはスキャンダルを追い求めることになるでしょう。やがて、失敗が許されない、生きづらい世の中を、自分たちでつくっていってしまうのです。

他人の痛みや苦しみに共感し
自分ごととして捉えてみる

 そもそも自分とは全く関係のない人の人生に、影響を受けること自体が愚かなことです。しかし、残念ながら人間は、他人の幸せや成功をうらやみ、失敗や不幸を好奇な目で見てしまう生き物なのです。その習性を理解し、上手に付き合っていくことが求められています。

 お釈迦さまが説かれた、人々を救うための四つの徳目「四摂法」の一つに「同事」があります。これは、「同じはたらきをともにすること」という意味があります。

 他人の不幸に触れたとき、それをさげすんで自分と比較するのではなく、見方を変え、「自分も同じ状況になるかもしれない」と共感することで自らを省みる機会にする。あるいは、「やむに止まれぬ事情があったのかもしれない」と、痛みや苦しみに共感してみる。

 このように、とらえ方を変えるだけで他人の人生が自分ごととなり、清らかな自分をつくっていくきっかけにすることができます。

 資本主義社会では、あらゆる情報やサービスがお金を生み出すために考えられています。人の不幸すら誰かが儲けるための商品になっている事実を、まずはあなた自身が自覚することから、試みていただきたいと思います。

 そして、その情報に踊らされ、自らの低い自尊心を、他人をおとしめることで満たそうとしている愚かさから脱却し、自らを高める時間を取り戻してもらいたいと願います。