「べき」を主張することで
憎しみを間接的に表現

 自分の心の中の、怒りや憎しみと孤独を認めない人がいる。認めないが、その人は怒りや孤独に動かされている。

 どんなに頑張っても、事態はどんどん悪化する。こうある「べき」と思うのは、憎しみからである。憎しみが正義の仮面を被っている。「べき」を主張することで、憎しみを間接的に表現している。

 憎しみに囚われていて「本当にこれをしたい」ということがない。「これをしよう」という意欲もない。しかし心の底には憎しみの感情が渦巻いている。

 しかしそれを表現することのできない人がいる。人に好かれることに執着しているからである。

「べき」の暴君とは、やはり憎しみが「べき」の仮面を被って登場してきているのである。

 憎しみが「べき」の仮面を被って登場しているから、執着性格者は規範に違反する人を許さない。規範を叫ぶのは規範に背く人を攻撃するためである。

 憎しみを憎しみとして表現できれば感情は処理される。しかし執着性格者はその強さがない。人に好かれることに執着している。

 そこで憎しみがいろいろな仮面を被って登場するのである。真面目という仮面を被っても登場する。

 高齢者本人は正しいことを主張しているつもりであるが、ますます嫌われる。

 執着性格者が常に消耗しているのは、憎しみとの戦いで消耗しているのである。

 そして憎しみがあるから、人をなかなか誉めない。人を誉めることにケチ。

 執着性格者はなかなか脱皮ができない。生命力が強くない。ザリガニは脱皮する。それが成長である。

 男性ホルモンの減少で、積極的変化も起きる。攻撃性の減少等が起きる。

 専門的分野では、高齢の人の方が若い人よりも優れたパフォーマンスを示すことがある。

 グラフィックデザイナーなど、いくつかのスキルで若い人よりも優れている。凌駕している。 

 IQ等では劣ることが多い。