高齢期には高齢期なりの
受け止め方があることを知るべき
壮年期に落ち込むのは、その人が何かに囚われていると理解できる。それは壮年期の生産性は、仕事をすることだと思いがちだからである。
壮年期には仕事を断られると、自分の価値が否定されたように間違って思い込み、落ち込む。間違った思い込みであるが、間違いを犯すこと自体は理解できる。
ところが高齢期になったときには、壮年期とは異なる。
しかし高齢期になっても、壮年期と同じ反応をしてしまう。
起きたことに対して壮年期で起きたときと同じように失望し、失望に囚われてしまう。高齢期になって壮年期と同じような反応をする。
自分の反応は唯一の反応ではない。いろいろな反応の仕方がある。不安なときにした反応は、たまたまそのときの自分がした反応である。
高齢期という自分の位置を忘れた反応をする人がいる。
今目の前に起きた嫌なことに心が囚われてしまうのは、そのことを通して今までの嫌なことについての蓄積された感情的記憶が燃え広がり始めるからである。
ところが実は今起きたことは、壮年期と違って嫌なことではない。
高齢期というコンテクスト(背景)から考えれば、嫌なことでも何でもない。当たり前のことであるかもしれない。
違ったコンテクストで違った感情を体験しないで、違ったコンテクストで小さい頃と同じ感情を体験してしまう。違ったコンテクストで学習してしまったことの恐ろしさである。

加藤諦三 著
「感情は学習される」ということの恐ろしさである。
「感情は囚われに基づいている」
現役時代に、失敗で侮辱された。そして失敗は不愉快なことであるという感情を学習してしまう。
高齢になって侮辱されていないのに、侮辱されたと思って不愉快になる。
高齢者に大切なのは「同じ刺激が異なるコンテクストでは異なる感情になることに気づかないと、私たちはみずから作り出した感情連想の犠牲となる」というエレン・ランガー教授の言葉である。