7月3日から、20年ぶりに新紙幣の発行がスタートした。新五千円札には、6才でアメリカに留学し、日本の女性が自立するための学校を作った、津田梅子の肖像画が描かれている。日本人女性初の留学生として、女子教育の発展に尽力した津田は、いったいどんな人物だったのか?
そこで今回は、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんが監修をつとめ、「すごい」と「やばい」の両面から日本史の人物の魅力に迫る『東大教授がおしえる さらに!やばい日本史』より、内容の一部を抜粋・編集してお届けする。(構成/ダイヤモンド社 根本隼)
日本女性初の留学生として多くを学んだ
海外事情にくわしかった父のすすめで、わずか6才の津田梅子は4人の少女とアメリカへ渡りました。日本人女性初の留学生です。
梅子はアメリカ人夫妻にかわいがられながら国際人として多くを学び、18才で帰国。日本で英語の教師になると、日本が欧米に比べて「男尊女卑」で、女性の地位も教育レベルも男性より低いことにショックを受けます。
そこで「日本にも女性が職について自立するための学校を作ろう!」と国内外の友人たちに寄付を呼びかけ、35才のとき、のちに津田塾大学となる女子英学塾を作りました。
梅子の授業は厳しいことで有名でしたが、卒業生の多くが教育者となったことで、全国の女性が高い教育を受け自立できる環境ができたのです。
留学先の恩師に「ブチギレられた」理由
女子教育の研究のため、24才で再びアメリカ留学した梅子は、大学で英語と歴史を専攻し、副専攻には生物学を選びました。すると梅子は生物学でも才能を発揮。教授と共同で『カエルの卵の発生』という論文を発表し高い評価を得ました。
梅子の才能を見こんだ学長は「このまま大学に残って科学者の道を選んでは? あなたなら世界で活躍できるわ」とすすめます。当時の外国人留学生に対しては特例の申し出です。梅子は科学の道にもひかれつつも、日本の女子教育のためにキッパリ断りました。
すると学長に「あなたがそんな恩知らずだとは!」とキレられ、ケンカ別れとなりました。でも、のちにふたりは和解し、学長は梅子の学校建設に協力しています。
日本の歴史は「外国すごい」と「日本すごい」でできている
日本の歴史は「すごい」ものを目にしたとき、大きく変わってきました。海の向こうの外国から日本とは違う文化や進んだ技術が伝わってきてそれに感動し、取り入れる。この「外国すごい!」が日本にたくさんの変化をもたらしました。
けれど、日本と外国との関係は時代によって大きく変わり、ときには外国を「やばい」と感じ距離をとったこともありました。
そんなとき日本は「やっぱり日本もすごい!」と、外国から取り入れた文化や技術にアレンジを加えたり、日本独自の文化を生み出したりして、成長してきました。
こうして「外国すごい!」と「日本すごい!」をくり返した結果、いまの日本ができあがりました。人間と同じく、国の考えや行動も時代によって変わる。そんなことを頭の片隅に置いて、歴史を学んでみるのもおもしろいかもしれません。
(本稿は、『東大教授がおしえる さらに!やばい日本史』から一部を抜粋・編集したものです)
東京大学史料編纂所教授。東京都出身。東京大学・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事し日本中世史を学ぶ。大河ドラマ『平清盛』など、ドラマ、アニメ、漫画の時代考証にも携わっている。おもな著書に『新・中世王権論』『日本史のツボ』(ともに文藝春秋)、『戦いの日本史』(KADOKAWA)、『戦国武将の明暗』(新潮社)など。監修を務めた『東大教授がおしえる やばい日本史』はシリーズ77万部。最新刊『東大教授がおしえる さらに!やばい日本史』も発売中。