「印象派というのは聞いたことがあるけれどよくわからない」……そんなあなたにおすすめなのが、書籍『めちゃくちゃわかるよ!印象派』。本書は、西洋絵画の巨匠とその名作を紹介するYouTubeチャンネル『山田五郎 オトナの教養講座』にアップされた動画の中から、印象派とそれに連なる画家たちを紹介した回をまとめたもの。YouTube動画と同様に、山田五郎さんと見習いアシスタントとの面白い掛け合い形式で構成されています。楽しみながら、個々の画家の芸術と人生だけでなく、印象派が西洋絵画史の中で果たした役割まで知っていただけます。
今回は「【美術界のビートルズ!?】光と色彩の画家ターナー」についてです。

モネの『日の出』の30年近くも前に描かれた『日の出』

印象派の新しさは光と色彩の移ろいや空気感を表現したことだと言われますが、実は30年以上も前のイギリスでそれを先取りしていた画家がいました。美術後進国イギリスを一気に最先端に押し上げたその大画家の名は、ターナー。モネやピサロは、ロンドンで彼の作品を見て印象主義に開眼したのです。

山田五郎(以下、五郎) 最初に取り上げるのは、イギリスの国民的画家として人気のターナーです。フランスで生まれた印象派の話をするのにイギリスの画家からはじめるなんて、と思った人もいるかもしれないけど、それにはちゃんと理由があるんです。とにかく、この絵を見てください。何かピンと来ない?

ターナー『ノラム城、日の出』(1845年頃、油彩、90.8 × 121.9 cm、テイト)

アシスタント(以下、アシ) あ、『印象、日の出』に似てる!

五郎 そう! 印象派という名前の由来とも言われるモネの『印象、日の出』を思わせるでしょ。題名も『ノラム城、日の出』だからね。


モネ『印象、日の出』(1872年、油彩、50 × 65 cm、マルモッタン・モネ美術館)

アシ 題名も似てる!

五郎 ターナーの絵に出てくるノラム城(Norham Castle)は、イングランドとスコットランドの国境にあるんです。12世紀くらいに建てられた古い城で、16世紀の終わりには廃墟と化していた。手前に川が流れているんだけど、ツイード川といいます。羊の毛で織るツイードという生地があるでしょ。あれは、この川の流域でつくられたから、そう呼ばれるようになった。

アシ へえええ。

五郎 そのツイードの語源となった川のほとりにある古城を描いた作品なんだけど、なんとなく『印象、日の出』に似てる。でも、ターナーの絵にはもっとそれっぽい絵もあるよ。これなんかどう?


ターナー『緋色の日没』(1830-40年、水彩+ガッシュ、13.4 × 18.9 cm、テイト)

アシ 太陽まで同じような位置にある!

五郎 こちらは『緋色の日没』という作品だから日没を描いてて、モネのは日の出なんだけど、よく似てるでしょ。だけど、モネに似てるんじゃないんだよ。モネがターナーに似てるんです。だって、ターナーのこのへんの作品は、『印象、日の出』より30年近くも前に描かれた作品だから。しかも、このターナーという人は、モネより65歳も年上なんだよ。

アシ わかった! モネがマネたんだ!

五郎 前後関係ではそうなるよね。ターナーはすごい人なんです。30年近くも前に、こんな印象派みたいな作品を描いてたんだから。この人はフランスでいうロマン主義から印象主義までを、ひとりで駆け抜けた人なんです。美術後進国だったイギリスを一気に最先端に押し上げた。だから、俺は勝手に「美術界のビートルズ」と呼んでます。ビートルズも、それまでアメリカがリードしていたロックンロールを一気にイギリス中心に変えちゃったでしょ。ターナーというのは、それくらいえらい人なんです。

つねに日の当たるところを歩んだヒットメイカー

五郎 ターナーはロンドンのコベントガーデンにある理髪店の息子として生まれました。妹がいたんだけど、小さい頃に死んじゃって、ターナーが10歳のときには、お母さんが心を病んで精神科病院に入って、最終的に亡くなっちゃうんです。だから、父1人、子1人で育った。

アシ かわいそう……。

五郎 でも、この人は10歳くらいの頃から絵の神童で、親父が店に彼の描いた絵を貼ったら、「売ってくれ」という人が続出して、それを売って小遣い稼ぎをしていたほど。だから親父もその気になって、「こいつは絶対画家にする!」と意気込んで、ターナーがデビューしたあとも、ずっとお父さんがマネジャーをやっていた。

アシ お父さんの目の色が変わった(笑)。

五郎 で、ターナーは13、14歳の頃に、近所にいたトーマス・モルトンという都市景観画家というか、建築パースみたいな立体透視図を描くのが得意な画家のところに弟子入りして、そこで遠近法を完璧にマスターする。

アシ 基礎はバッチリですね!

五郎 その後、ターナーはわずか14歳で、王立美術アカデミーの付属校に入ります。そこで、初代会長のジョシュア・レノルズという重鎮に目をかけられ、15歳にしてアカデミーの展覧会に水彩画が入選するという神童ぶりを発揮。それ以降、毎年のように入選して、すごいすごいともてはやされるわけ。さらに21歳で今度は油絵で初入選。それが『海の漁師たち』という作品で、月夜のちょっと荒れた海で漁をする漁師を描いています。


ターナー『海の漁師たち』(1796年、油彩、91.4 × 122.2 cm、テイト)ターナー『海の漁師たち』(1796年、油彩、91.4 × 122.2 cm、テイト)

アシ 幻想的な風景ですね。

五郎 この絵には、のちのターナー作品に多い「海の景色=海景」と「水と光の表現にこだわる」という特徴が早くも出ている。これでさらに評価が高まって、24歳でアカデミーの準会員になり、27歳で正会員に昇格した。

アシ トントン拍子の出世ですね。

五郎 さらに富裕層のパトロンもたくさんついた。たとえば、これは『レイビー城、ダーリントン伯爵の邸宅』という作品なんだけど、イギリスの貴族って自分の領地と城を描かせるのが好きなんだよ。だから、貴族の城に行くと、よくこういう絵が飾ってある。ターナーはこういう仕事もバンバン受けて、最終的に76歳でコレラにかかって亡くなるまで、出世街道をひた走ったわけ。

ターナー『レイビー城、ダーリントン伯爵の邸宅』(1817年、油彩、119 × 180.6 cm、ウォルターズ美術館)

アシ 天寿を全うしたんですね。

五郎 ターナーの人生って、順風満帆すぎておもしろくもなんともないんだよ。ほとんど挫折もなく、ずっとうまくいって、出世して、大画家と呼ばれて。だけど、この人がすごいのは、その地位に甘んじることなく攻め続けたところなんですよ。そこもまた、人気絶頂なのに新作ごとにスタイルを変えていったビートルズと重なるんだよね。