当代随一の売れっ子ノンフィクション作家マイケル・ルイスの新作『1兆円を盗んだ男 仮想通貨帝国FTXの崩壊』(小林啓倫訳/日本経済新聞出版)は、暗号資産の取引所FTXを創業し、人類史上最速で資産100億ドル(約1兆6000億円:1ドル=160円で計算)を超える大富豪になったサム・バンクマン=フリードの栄光と没落を描いている。

「1兆円を盗んだ男」という邦題は、FTXの破綻によって87億ドル(約1兆円:当時のレート、1ドル=115円で計算)の顧客資産が返済不能になったことからつけられた(その後、かなりの割合で返済が進んだようだ)。原題は“Going Infinite; The Rise and Fall of a New Tycoon(無限を目指す 新たな大君の栄光と没落)”。

FTXの破綻によって約1兆円の顧客資産を消滅させたサム・バンクマン=フリードが魅了された「効果的利他主義」と目指した理想の社会とは?photo/Artsaba Family / PIXTA(ピクスタ)

サム・バンクマン=フリードとは、どういう人物なのか?

 一流のノンフィクションは「正しい場所」にいることから生まれるが、本書はその典型だ。ルイスは友人の紹介でサム・バンクマン=フリードに会い、この「夢みる天才」に興味をもって、2021年末に取材を始めた。FTXが破綻するのが翌22年11月だから、ルイスはこの偶然(幸運)によって、動乱の渦中の1年間をサムやその側近・幹部たちからじかに取材する特権的な立場を手に入れたのだ。

 FTXのスキャンダルについて、巷間いわれている“犯罪”とは事実が大きく異なることを明らかにしたのが本書の最大の功績だが、それについては各自で読んでいただくとして、ここではサム・バンクマン=フリード(以下、サム)という興味深い人物と、彼が魅了された「効果的利他主義」について述べてみたい。

 イギリスの心理学者で自閉症を研究するサイモン・バロン=コーエンは、生得的に極端に論理的・数学的知能が高い一方で、共感力やコミュニケーション能力に困難を抱える「天才」たちを「パターン・シーカー(パターンを追求する者)」と呼んだ。パターン・シーカーの典型が、イーロン・マスクをはじめとするシリコンバレーの大富豪たちだ。

【参考記事】
●シリコンバレーに集まる天才たちに共通する「自閉症傾向」。成功の影にあるトレードオフとは?

 パターン・シーカーは、一般には「高機能自閉症」あるいは「アスペルガー症候群」と呼ばれている。「アスペルガー(アスペ)」はかつては差別的なニュアンスがあったが、最近では当事者がそう自称している。

 両親ともにスタンフォード大学の高名な法学教授というエリートの家庭に生まれたサムも典型的な高機能自閉症で、子どものときから、自分が他の子どもとはちがうことに苦しんできた。

 8歳のとき、サムは友人たちがサンタクロースの実在を信じていることを知ってショックを受ける。それから1年ほどして、こんどは同じクラスの男子生徒が神を信じていると言い出して、さらに大きな衝撃を受けた。

 サンタクロースや神に対する信仰について熟考したこの小学生は、「集団妄想」は世界で普遍的に見られる現象だという結論に至った。妄想にとらわれた相手に、議論や反論をしても意味がないのだ。

 こうしてサムは、子ども時代が終わるのをただ待つことにした。「他の子どもたちが成長して自分と話せるようになるまで」息をひそめて生きていくしかないと理解したのだ。それは、深いところで「自分が他の人類すべてから切り離されている」という感覚だった。

 自分が幸せでないことを自覚したのは中学生の頃だった。中学1年のある日、母親が仕事から戻ると、サムが「退屈すぎて死んじゃいそう」と泣いていた。

 それがきっかけとなって両親はサムを一流の私立高校に通わせたが、事態はまったく変わらなかった。サムは文芸批評というものを受け入れられなかった。本を読めば、好きとか嫌いとかの感想をもつが、それに正解や間違いがあることが理解できなかったのだ。シェイクスピアが優れた作家だというのは統計的な過ちで、たんなる信念としか思えなかった。

 1600年当時の人口や識字率を考えれば、現代の英語圏からより優れた作家が生まれる確率は数百倍も高いのだ。

 こうしてサムは、本を読まなくなった。そんな子どもが唯一、夢中になったのは、小学6年生のときに出会ったMTG(マジック・ザ・ギャザリング)」というゲームだった。

大金を稼いでいても「喜びを感じない」サムが始めたこととは?

 MIT(マサチューセッツ工科大学)で物理学を専攻したサムは、大学3年の就職フェアで、自分のような学生を積極的に採用する業界があることを知った。それがHFT(高速・高頻度取引業者)で、金融市場をゲームのように攻略することで巨額の利益を得ていた。

 サムは、自分がこのゲームにきわめて高い適性があることに気づいた。そこでジェーン・ストリートというヘッジファンド会社のインターンに応募すると、卒業後、正式なトレーダーとして働きはじめた。

 サムはジェーン・ストリートでトップランクのトレーダーで、1年目(23歳)の年収が30万ドル(約4800万円)、2年目(24歳)は60万ドル(約9600万円)、3年目(25歳)は100万ドル(約1億6000万円)になった。上司は、このままの成績を続けていけば、10年後の年収は1500万ドル(約24億円)から7500万ドル(約120億円)のあいだになるだろうとサムに伝えた。

 それに加えて、ジェーン・ストリートはとても働きやすい職場だった。そこでは、失敗しても社員を責めることがなかった。大きな損失を被ったときも、「誰か指示に反する行動を取ったか?」と聞いて、答えが「いいえ」なら、CEOでも同じことをしたかもしれないという話で決着したのだ。

 また、誰かを解雇することもなかった。退職者が競合他社で仕事をするよりも、何もしなくても給料を払うほうが安くすんだのだ。

 高給で居心地がいいのならなんの不満もないと思うが、サムはここでも退屈していた。世俗的な欲望はほとんどなく、稼いだ大金は使い道がないので寄付していた。

 25歳のとき、サムは「僕は喜びを感じない」という文章を書いている。以下はこの若者の特異な性格をよく表わしているので、そのまま引用しよう。

 幸せを感じない。どういうわけか、僕の脳の報酬系はまったく刺激されないようだ。最高の瞬間、誇らしい瞬間がやってきては過ぎ去り、脳のなかで幸福感があるはずの場所には穴があって、それが痛むのを感じるだけだ。

 本当の感謝をするためには、喜びや親近感、高揚感といったものを、心で、腹で、頭で感じなければならない。(略)しかし僕はそれを感じない。何も感じないのだ。少なくとも、いいことは何も。僕は喜びも、愛も、誇りも、献身も感じない。僕はその瞬間のぎこちなさを感じている。適切なリアクションをとらなければ、彼らを愛していると示さなければ、というプレッシャー。しかし僕はそうしない。そうすることができないからだ。

 自閉症者に特有のこうした体験は、「別の惑星から来て、自分が参加できないゲームの脇から他の種族を眺めているようだ」と表現される。自閉症の動物学者であるテンプル・グランディンは、精神科医のオリヴァー・サックスに、自分は「火星の人類学者」だと語った(オリヴァー・サックス『火星の人類学者 脳神経科医と7人の奇妙な患者』吉田利子訳、ハヤカワNF文庫)。

 サムもまた「火星の人類学者」として、他人から理解されやすくなるように、相手の言動に反応しているふりをすることを学んだ。こうしてつくりあげた「人格」は、「僕が人々に聞かせようと決めた考えをまとめたもの」で、「実生活版のツイッターアカウント」のようなものだった。

 そんなとき、サムは暗号資産のマーケットに大きなバグ(トレーディングの機会)があることに気づいた。ざっと計算すると、その利益は10億ドル(約1600億円)になった。そこで、人生に退屈しきったこの若者は、ヘッジファンドを辞めて新たな冒険を始めることにした。

 その目的は、大金を稼いで、よりよい世界、よりよい未来をつくることだった。