トランスジェンダー活動家らのキャンセル運動によって、アメリカのジャーナリスト、アビゲイル・シュライアーの『あの子もトランスジェンダーになった』がKADOKAWAで刊行中止になった事件はメディアやインターネットで広く報じられた。

 その後、同書は産経新聞出版が版権を取得し、邦題を『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』(岩波明監修/村山美雪、高橋知子、寺尾まち子訳)と変えて発売された。一部の書店では販売が自粛されたものの、すでに話題になっていたからか、Amazonではたちまち総合1位になった。結果的に、翻訳出版を中止させようという運動は、ふだんはこの手の本を読まない層の関心をかき立てることになったようだ。

刊行中止で感じた2つの問題点

 キャンセルカルチャーの炎上案件は双方の主張にそれなりの理があるので、どちらが正しく、どちらが間違っているかをここで論じるつもりはない。ただ、言論・表現の自由に依拠する一介の著述業者の立場から2点指摘しておきたい。

 ひとつは、トランスジェンダー問題に関心をもつ研究者らが独自にこの本の検証作業を行ない、「信頼性の低い論文やデータを多用している」としたことが、(一部で)刊行中止を正当化する根拠とされていること。批判や検証はもちろん重要だが、だからといって出版を中止させる理由にはならない。読者には、翻訳とそれに対する批判を知ったうえで、いずれが正しいかを自ら判断する権利があるだろう。

 もうひとつは、「日本ではトランスジェンダー問題へのリテラシーが蓄積されていないから、翻訳出版は問題だ」という論調があること。これは、「トランスジェンダー本を出版していいかどうかは、(当事者である、あるいはこれまで研究を続けてきた)リテラシーの高い自分たちに決める権利がある」というきわめて危険な主張につながるように思える。キャンセル運動を支持する論者の多くが、こうした知の特権性に無自覚なのではないか。

 とはいえ私は、出版の中止を求めることも(矛盾するようだが)言論・表現の自由の範囲内だと考えている。だからこれは活動家ではなく、出版社の問題だ。

 KADOKAWAは出版中止の理由として、本書の内容にはなんの問題もないが、「タイトルやキャッチコピーの内容により当事者の方を傷つけることに(なった)」としている。だが『あの子もトランスジェンダーになった』(KADOKAWA)と『トランスジェンダーになりたい少女たち』(産経新聞出版)とのあいだに、日本語として決定的なちがいがあるとするのは困難だろう。

 それよりも気になるのは、この騒動によって本は売れたかもしれないが、本書について公に語ることがはばかれるような雰囲気になっていることだ。すくなくとも私の知るかぎり(検索したかぎり)、インターネット以外でまとまった書評はほとんど掲載されたことがない。そこで発売からしばらく経ったこともあり、いちど本書の感想を書いてみたい。

 原題は“Irreversible Damage; The Transgender Craze Seducing Our Daughters(回復不能なダメージ 娘たちを誘惑するトランスジェンダーの〈文化的〉熱狂)”。

トランスジェンダーは文化的熱狂の被害者

 最初に述べておくならば、本書はトランスジェンダーを差別したり、偏見を植えつけたりするようなものではなく、そもそもトランスジェンダーについて述べたものですらない。著者の主張を要約するなら、「2000年代になってから、アメリカではトランスジェンダーが10代の(主に白人の)女の子のあいだでファッション化し、それによって多くの弊害が生じている」になるだろう。トランスジェンダーは、このCraze(文化的熱狂)の被害者なのだ。

 2017年10月、カリフォルニア州で、患者が申請した人称代名詞(heやsheやtheyなど)の使用を拒んだ医療従事者に懲役を科す法律が制定された。ニューヨーク州でも、雇用主、家主、事業主を対象とする同様の法案が可決されている。

 コロンビア大学で文学士、オックスフォード大学で哲学士、イェール大学法科大学院で法務博士の学位を取得したシュライアーは、この件についてウォール・ストリ-ト・ジャーナルに「トランスジェンダー言語戦争」なる記事を寄稿し、「(言論の自由を定めた)憲法第一条によって、アメリカ国旗への敬礼を児童に強制することは違憲との判断を最高裁が下しているのに、州が医療従事者に特定の代名詞を使用するよう強いることなどできるわけがない」と論じた。

 その後シュライアーは、この記事を読んだ南部の著名な弁護士の女性から連絡をもらった。彼女にはルーシーという娘がいるのだが、子どもの頃には性別違和の徴候はまったく見られなかったのに、思春期になって自分は“トランスジェンダー”だと言い出したのだという。

 ルーシーはインターネットでトランスジェンダーの導師(メンター)と出会い、親に隠れてテストステロンの投与を始めた。やがて不愛想で攻撃的になって、母親を“門番(ゲートキーパー)”だとか“トランス嫌悪(フォビア)”だとなじり、両親が本名で呼んでしまったり、新たな人称代名詞を間違えたりすると、激昂するようになった。

「あっという間に、もとのルーシーの面影は失われた。生物学的には支離滅裂としか思えないようなジェンダー思想(イデオロギー)に突如として取り憑かれてしまったかのような娘に、両親は危機感をつのらせた。ルーシーはカルト教団に入信したみたいだったと母親は言う。娘を取り戻せないのではないかと恐れていたと」

 たしかに母親はこう感じたのだろうが、こうした描写から映画『エクソシスト』を思い浮かべたのは私だけではないだろう。この母親にとって、SNSやインターネット動画で活動するトランスジェンダーのインフルエンサーは、可愛かった娘を「なにか別の生き物に変えてしまった」カルト=悪魔なのだ。

 私が思うに、ノンフィクションとしての本書の欠点は、ルーシーのケースに限らず、母親の話だけで構成され、当事者である娘の主張を聞いていないことだ。もちろんジャーナリストであるシュライアーはこのことに気づいているはずだが、いったん母娘関係がこじれると、母親の「味方」だと思われているジャーナリストが娘にインタビューすることは不可能だったのだろう。

 逆の立場でもこれは同じで、「毒親(そのほとんどが母親)」についての本は、子ども(そのほとんどが娘)の話は詳細に聞いているものの、それがはたして事実なのか、親に取材して確認しているものはほとんどない。

 こうした手法の問題は、一方の主張だけに依拠することで、イデオロギー的になってしまうことだ。

 誤解のないようにいっておくと、これはシュライアー(あるいは「毒親本」の著者)を批判しているわけではない。

『トランスジェンダーになりたい少女たち』で書かれているのはいまのアメリカ社会で現実に起きていることであり、親が不安に思うのも当然だろう。だが本書がトランスジェンダーの活動家たちから強い反発を受けたのは、「最初に結論(善良な母親が突然、トランスジェンダーになった娘に翻弄される)があって、それに合わせた事例を集めているのではないか」と思われたからではないだろうか。

 だからといって出版を中止させる理由にはならないが、キャンセル運動が起きた背景には納得できるものがある。