アメリカでコロナが蔓延しはじめた2020年4月24日、ドナルド・トランプ大統領は記者会見で、ウイルスに殺菌剤が効果があるならば、それを体内に注射すればいいではないかと述べた。より正確には、国土安全保障省科学・技術局次官の「漂白剤は5分で、イソプロピルアルコールは30秒で(コロナ)ウイルスを殺します」という発言を聞いて、トランプは次のように述べた。

「それと、殺菌薬は一瞬でそれ(コロナウイルス)をやっつけるんだろう。一瞬で。だったら、注射か何かできないのかな。浄化するんだ。だってほら、ウイルスは肺に入って大量に増えるんだろう。だから、それを確かめるのも興味深い。医者を利用するべきだ。非常に興味深いと思う」

 この発言は日本では、いつものようにトランプの無知を示すものと笑われて終わったが、アメリカではまったく別の意味をもっていた。

 アメリカでは実際に、人体に「漂白剤」を注射するという代替医療が存在し、それもかなりの影響力をもっていた。トランプの発言は、大統領がこの「インチキ薬」を推奨したと受け取られたのだ。

「どんな病気でも治すことができる“唯一真実の治療法”がどこかにあるはずだ」

 2021年1月6日に連邦議会議事堂占拠事件を引き起こしたQアノンの特徴は、教祖(主導者)が存在しない、誰でも参加できるSNS時代の陰謀論であることだ。その結果、Qアノンはそれ以外のさまざまな陰謀論と結びつき、多種多様な変種を生み出している。

【参考記事】
●トランプ氏を熱狂的に支持した「Qアノン」たちは、どのように誕生し、アメリカ社会にどんな影響を与えたのか?

「ビッグ・ファーム(大手製薬企業)陰謀論」として知られている反ワクチン、反正統派医学の民間運動は、現代医学は製薬会社が利益を上げるために仕組まれた陰謀で、患者に無駄な治療をするだけでなく、治療を受けると病状が逆に悪化すると主張する。

アメリカでコロナ禍に反ワクチン、反現代医学から生まれた「代替医療」の顛末とは?イラスト/T-KONI / PIXTA(ピクスタ)

 この「現代医学全否定」から、「どんな病気でも治すことができる“唯一真実の治療法”がどこかにあるはずだ」という宗教的な信念が生まれた。これは「代替医療」とか、「スピリチュアル医療」と呼ばれる。

 アメリカのジャーナリスト、マシュー・ホンゴルツ・ヘトリングの『リバタリアンとトンデモ医療が反ワクチンで手を結ぶ話 コロナ禍に向かうアメリカ、医療の自由の最果ての旅』(上京恵訳/原書房)は、アメリカで影響力をもつ6つの代替医療を取り上げ、それがどのように広まり、どんな結果になったかを軽妙な筆致で描いたノンフィクションだ。

 ヘトリングの前作は『リバタリアンが社会実験してみた町の話 自由至上主義者のユートピアは実現できたのか』(上京恵訳/原書房)で、原題は“A Libertarian Walks into a Bear; The Utopian Plot to Liberate an American Town (and Some Bears)(リバタリアン、熊に遭遇する あるアメリカの町(と何頭かのクマ)を解放するユートピア構想)”。「自由に生きるか、さもなくば死を」が標語になっているアメリカ北東部のニューハンプシャー州の小さな町を舞台に、そこに移住して理想の共同体(フリータウン)をつくろうとした原理主義的リバタリアン(世間からは奇人変人の類と扱われている)と、森の食料がなくなって町に出没するようになった野生の熊との遭遇が描かれていた。

『リバタリアンとトンデモ医療が反ワクチンで手を結ぶ話』という邦題は前作との連続性を強調したのだろうが、今回の原題は“If It Sounds Like a Quack; A Journey to the Fringes of American Medicine(もしそれがクワッ、クワッと(アヒルみたいに)鳴いたら アメリカ医療の辺境への旅)”で「リバタリアン」は出てこない。“Quack”にはアヒルの鳴き声のほかに、「偽医者、やぶ医者 ほら吹き ヤマ師」の意味があり、副題のようにヘトリングが「アメリカ医療の辺境」を旅した物語だ。

 本書に「リバタリアン(自由原理主義者)」が関係するのは、代替医療の主導者が医療・医薬品に対するあらゆる規制に反対し、「誰もが自らの治療法を自由に決められるべきだ」と“自己決定論”を唱えているからだ。

 だが実際には、代替医療の支持者はリバタリアンよりも、“自然でないもの”を忌避する、「スピリチュアル系」などと呼ばれるリベラルで裕福な高学歴白人が多い。コロナ禍のあいだに反ワクチン陰謀論に合流した“スピ系”は、「Qアノンママ」や「パステルQアノン」と呼ばれた。

「FDAは大手製薬会社の手先」というオルタナ医療者の主張に同意するアメリカ人は多い

 話の前提として、ヘトリングも認めるように、「ビッグ・ファーム陰謀論」には相応の根拠がある。

 アメリカでは食品、医薬品、医療機器、化粧品などの安全性・有効性を検証し、承認する行政官庁はFDA(アメリカ食品医薬品局:Food and Drug Administration)になる。Quack(オルタナ医療者)がFDAと対立するのは、承認がないまま医薬品と称するものを販売すると、違法行為として告発・逮捕・収監されるからだ。

 そのため代替医療者は、高い効果のある“薬”をFDAが販売させないのは、製薬会社の利益を守っているからだと批判する。

「自分の身体のことは自分がいちばんよくわかっているのだから、すべての患者には、どのような治療を選択するかの自己決定権が保証されるべきだ」という主張には、かなりの説得力がある。リバタリアン的にいうならば、FDAがやっていることは、国家による市民の「身体の自由」への介入なのだ。

 もちろんそんなことになれば、世の中にイカサマ薬が溢れることになるから、ほとんどのひとは行政機関による適切な規制の必要を認めるだろう。だが現実には、FDAは製薬会社から治験などの費用として多額の資金を受け取っており、さらに製薬会社はそれ以上の膨大な資金を、自分たちに有利な法律を通すためのロビー活動に投じている。アメリカで登録されている製薬会社のロビイストの数は1270人で、連邦議員の数を大幅に上回っているのだ。

 製薬会社と医学界や行政との癒着は、イギリスの精神科医デイヴィッド・ヒーリーによって、pharmaceutical(製薬)とarmageddon(ハルマゲドン)を合わせた「pharmageddon(ファルマゲドン)」と名づけられた(デイヴィッド・ヒーリー『ファルマゲドン 背信の医薬』田島治監訳、中里京子訳/みすず書房)

 オピオイドは、FDAの承認を受けた「安全で効果の高い鎮痛薬」として医師が大量に処方し、膨大な数の依存症者と死者を出すことになった。こうした現実を見れば、「FDAは大手製薬会社の手先」というオルタナ医療者の主張に同意するアメリカ人は多いにちがいない。

 もうひとつはアメリカの医療制度の問題で、2020年のある調査では、人口のおよそ3分の1にあたる1億500万のアメリカ人が、過去12カ月のあいだに専門的な医学的治療を受けないと決めていた。2017年の調査では、アメリカ人の20%が標準医療を拒絶して代替医療のみを利用していた。

 だがこれは、無知なアメリカ人がトンデモ医療に洗脳され、現代医学を拒否しているわけではない。そもそも「医者に診てもらう」という選択肢がない地区が急速に広がっているのだ。

 2000年に行なわれた調査によれば、アメリカ人の約20%が地方に住んでいるのに対して、そこで開業している医師は全体の9%にすぎなかった。地方の住民のおよそ25%は、費用が高かったり遠方であったりするため医療サービスを受けられなかった経験があると答えた。米国病院協会は、2033年までに最大12万4000人の医師が不足すると推定している。

 ヘトリングによれば、これは不可抗力ではなく、アメリカの医師会が、医師の数を減らすことで需要(患者数)に対して供給(医師)を過少にし、開業医の収入を増やそうとしているからだ。

「医療関係者が去ると、あとに残された空白地帯には“唯一真実の治療法”や反ワクチンの訴えが入り込む。そして、田舎での医療の不在は、たまたまそうなったわけではない。米国医師会(AMA)が、まさにそうなるようにこの分野をデザインしたのだ」

 医療から疎外された地域では、病原菌あるいはワクチンによって人間がゾンビ化するという奇妙な黙示録が広まっている。2019年の世論調査では、驚くべきことに14%のアメリカ人が、「ゾンビ黙示録」が起こった万一の場合に備えた行動計画を考えていると答えた。