水野忠邦は「天保の改革」(1841~1843)を主導した老中首座(老中のトップ)だ。しかし、この改革は「質素倹約」を強引に押し付けるものであり、忠邦は反感を買って失脚した。一部では、忠邦を「逼迫(ひっぱく)した幕府の財政再建に挑んだリーダー」と評価する声もあるが、国許での振る舞いに目を向けると、やはり「名君」といえる存在ではなかったことが分かる。彼の本性は一体どのようなものだったのか――。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
水野忠邦の願いは「自身の出世」
領民は眼中になし!
水野忠邦は格式高い家柄の出身である。忠邦の祖先に当たる忠政の娘が、徳川家康の実母「於大の方(おだいのかた)」なのだ。於大の方は、2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』で、女優・松嶋菜々子さんが演じた女性といえばわかるだろう。
忠政の孫・忠元は2代将軍・徳川秀忠の側近であり、下総山川藩(茨城県)3万5000石の大名だった。その長男・忠善は岡崎藩(愛知県)5万石の大名となり、忠善の息子・忠春は寺社奉行の座に就くなど、水野家は有力譜代大名だった。
1717(享保2)年には、水野家から老中も誕生した。水野忠之である。8代将軍・吉宗を補佐して「享保の改革」に携わったが、天領(幕府の直轄地)の年貢率を引き上げるなどの強行策が反発を招き、罷免された。
以来、水野家は幕府の出世コースから外れ、岡崎藩から肥前唐津藩(佐賀県)へ国替えとなった。1762(宝暦12)年のことだ。
唐津藩の石高は6万石だったが、実高(事実上の収入)は20万石超といわれる。「実入りの良い」藩だったが、長崎港を警固して外国船対策にあたる役に従事しており、老中などの重職には就けないのが慣例だった。この藩の御曹司として1794(寛政6)年に生まれたのが、冒頭の忠邦である。
「藩の御曹司」といっても、大名の妻子は江戸に滞留することを義務付けられていたため、生誕は江戸の唐津藩上屋敷である。忠邦は唐津藩ではなく江戸で生まれ、江戸で育ち、1812(文化9)年に19歳の若さで当主となった。
忠邦は当主となっても、一度も唐津へ国入り(領地に赴くこと)しなかった。彼にとって唐津は九州の遠い地にあり、まったくといっていいほど馴染みがなかった。領民にとっても、親近感を持てない殿様だった。
もっとも、このことは忠邦に限らない。国の実情など知らず、顧みない若殿は多かった。だが、忠邦はその傾向が特に顕著な男で、唐津の安定より江戸での出世を強く望んだ。自身の栄達こそ大願――忠邦は家臣に宛てた書状で、出世を目指して進むべき道を「青雲の要路」と記している。
しかし前述の通り、唐津藩当主のままでは幕府の要職に就けない。そこで彼は唐津を捨てる決意をする。出世欲にまみれた若殿の姿を、次ページから詳しく解説しよう。