紀伊徳川家(和歌山藩)は家康の十男・頼宣を祖とし、「徳川」の名字を名乗ることを許された将軍家に次ぐ家格の大名だった。将軍の世継ぎが途絶えた場合は、紀伊または尾張徳川家の人材を抜擢することになっており、この取り決めによって誕生したのが8代将軍の吉宗だ。だが、吉宗の3代のちに和歌山藩主となった男に、やたらと発砲事件を起こす「ガンマニア大名」がいたという。その問題児の名は徳川重倫(しげのり)といった――。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
異様な巨体を誇った
荒っぽいガンマニア
江戸時代の「徳川御三家」をご存じだろうか。いわゆる「将軍家の分家」であり、「紀伊(紀州)・尾張・水戸」の三家で構成される。将軍家に跡継ぎが生まれなかった場合は、このうち紀伊または尾張徳川家の人材を抜擢することになっていた。
かの有名な8代将軍・徳川吉宗も、実は宗家出身ではなく紀伊徳川家の生まれである。吉宗は和歌山藩主だった光貞(みつさだ)の末男であり、本来なら藩主に就く立場になかったが、兄たちが相次いで死去したため紀伊徳川家を相続した。その後、英名と実務能力を買われて幕府の8代将軍となった。1716(享保元)年のことである。
そして、吉宗が将軍家に移ったことで和歌山藩主の座が空位になると、吉宗の従兄弟だった伊予西条(現在の愛媛県)藩主・松平頼致(よりよし)が6代和歌山藩主となり、徳川宗直(むねなお)を名乗った。
宗直は藩の財政を建て直す努力を重ねたが、これといった功績は残していない。宗直の後を継いだ7代・宗将(むねのぶ)も影は薄い。
ところが宗将の子で、1765(明和2)年に20歳で8代藩主となった重倫は、有名な男だった。まず身体が大きかった。一説には身長は6尺(約182cm)を超え、足袋の大きさは12〜13文(約28〜31cm)。江戸時代の男性の平均身長は155.09~156.49cm(『日本人のからだ』朝倉書店)といわれるから、周囲を威圧する巨漢だった。
おまけに性格は良くいえば豪放磊落、悪くいえば粗暴で、たびたび問題を起こした。しかも銃の発砲事件というから看過できない。紀伊徳川家に生まれた異色のガンマニア・重倫とはどのような男だったのか。次ページ以降で詳しく解説したい。