女性問題で人生を棒に振った殿様は少なくない。中でも目立つのは遊女との関係だ。姫路藩の藩主・榊原政岑(さかきばら・まさみね)も、そのひとり。政岑は「太夫」(たゆう)と呼ばれる最高位の吉原遊女を高額で身請けして「好色大名」と異名をとった。「身請け」とは、遊女を辞めさせて愛人とすることである。今回は、そんな好色家・政岑の足跡を追った。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
吉原遊郭に約2億5000万円を支払い
No.1遊女を愛人に!?
日本史をひもとくと、「英雄色を好む」という諺(ことわざ)の通り、女好きだった武将や大名は数多い。その中でも、江戸時代中期の大名・榊原政岑は特筆すべき好色家だと言える。
政岑の女性関係と派手な遊びについては、明治時代の江戸文化・風俗研究家の三田村鳶魚(みたむら・えんぎょ)が著した『列侯深秘録』に詳しい。その記述を順に見ていこう。
「太夫高尾を身請けし千金をついやし」
ここに書かれている「高尾」とは、吉原の高級遊女が代々襲名した源氏名で、政岑が身請けしたのは6代目または7代目といわれる。「千金」の金額は2500両で、現在の価値に換算すると約2億5000万円に上る。
「その上三千両の金にて総くるわの遊女を総上げ」
政岑は単に大金を払って高尾を身請けしただけでなく、その「お祝い」としてさらに3000両(約3億円)を使い、「くるわ」(遊郭)の遊女たち全員を集めて酒宴に及んだという。
「遊女は高尾に限らず度々請出されし」
「姫路に帰城の節、大坂より有馬に廻られ三日入湯。湯女三人を身請け」
政岑の「やりたい放題」はそれだけで終わらない。身請けした遊女は高尾のみならず複数いた。吉原の遊女以外にも手を出しており、参勤交代を終えて江戸から姫路に帰る途中、有馬温泉に立ち寄って3日過ごし、その際に湯女(入浴中に接待する娼婦)を3人も身請けしたというから驚きだ。
事実なら放蕩極まれり——。『列侯深秘録』は、皮肉を込めて政岑を「酒気腹色夫」(さかきばらしきぶ)と詠む狂歌(滑稽な内容を盛った和歌)があったことを記している。政岑の官位だった従五位が「式部」(しきぶ)と呼ばれていたことを、もじったのだ。
政岑に関する悪評は、この『列侯深秘録』をもとに伝わっている。同書は明治に入ってから伝聞を収集して書かれたもので、真偽が怪しい側面もあるが、火のない所に煙は立たぬ。政岑の女癖が悪かったのは確かだろう。
次ページ以降では、そんな政岑のルーツや「やらかし」エピソードをさらに解説していく。