井上正甫(いのうえ・まさもと)は、浜松藩を治めた大名だった。1775(安永4)年に誕生し(1778年説もある)、1858(安政5)年に死去したが、実は40歳頃に取り返しのつかない「性加害事件」を起こした。それから40年以上にわたって歴史の表舞台から姿を消し、後半生をどう生きたか不明である。正甫の人生を狂わせた事件の詳細とは――。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
エリート街道をひた走っていた
男は何をしでかした?
『近世日本政記』は明治11年に成立した歴史書で、江戸時代の文献を元に編纂されている。その第3巻の1816(文化13)年12月の項に、次の一節がある。
「井上正甫失行禁錮之」
井上正甫という人物が、刑罰を受けて拘留された(禁錮)。そのため、藩主としての政務を執り行うことができなくなった(失行)とある。
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正甫は浜松藩6万石の藩主だった。浜松城は俗に「出世城」と呼ばれ、老中などの主要幕閣(幕府の首脳陣)を多く輩出したことで知られていた。
このことは、徳川家康が生涯で最も長い時間を過ごしたのが浜松城だったことに関係している。家康の功績が詰まった地・浜松を統治する者は、次代の幹部候補だったのである。
正甫の先祖に当たる井上氏が浜松に入ったのは、1758(宝暦8)年。大坂城代や京都所司代を歴任した正経(まさつね)のときである。正経も1760(同10)年に老中となり、正経の子で井上家浜松藩2代藩主・正定(まささだ)は寺社奉行だった。
正定の後を継いだのが正甫で、1802(享和2)年、20代後半で11代将軍・徳川家斉の奏者番(そうしゃばん)となった。奏者番は、大名や旗本が将軍に拝謁する際の取次役で、譜代大名(数代にわたって徳川家に仕えてきた大名)の中から選ばれる。いわば「出世の登竜門」といえる役職だった。
在任中の奏者番は「江戸定府(えどじょうふ)」となり、江戸に常住することが認められ、参勤交代も免除されていた。
エリートの一族に生まれ、自身も出世街道をひた走っていた男が、なぜ転落したのか。正甫が起こした性加害事件の顛末を、次ページ以降で詳しく解説する。