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※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

国家予算のおよそ5%を投じて撃沈した戦艦大和が生まれた「根源的な失敗理由」Photo: Adobe Stock

戦争の悲劇を防ぐため
軍縮条約を結んだものの

山本五十六(1884~1943年)は明治から昭和にかけての海軍軍人。生家は幕末に新政府と戦った長岡藩(新潟)の武家であり、成人した後、旧長岡藩の家老だった山本家に養子に入る。アメリカに駐在武官(現在の防衛駐在官)として赴任したり、ハーバード大学に留学したりした経験から、アメリカの国力の強さを認識。軍艦同士の決戦が主流だった時代から航空戦の時代を予見するなど、先見の明があった。太平洋戦争前には連合艦隊司令長官に昇進。日米の圧倒的な国力差からアメリカとの開戦には反対していたが、開戦が決定してからはハワイ真珠湾の奇襲作戦を立案し、真珠湾攻撃(1941年)を成功させる。しかし、その翌年のミッドウェー海戦(1942年)では敗れ、航空戦に必要となる空母を数多く失った。その後もアメリカとの戦いを指揮するものの、前線視察で赴いた南太平洋・パプアニューギニアのブーゲンビル島の上空で米軍の攻撃を受け、戦死する。現代の企業理念にも通じる「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」という格言でも有名。

2005年に公開された映画『男たちの大和/YAMATO』は、反町隆史・中村獅童といった俳優が好演するなか、戦艦大和の壮絶な撃沈シーンが印象的でした。

その戦艦大和は、史上最大の軍艦として、太平洋戦争開始直後の1941年12月16日に就役しました。

第一次世界大戦(1914~18年)の後、戦争による悲劇を防ぐため、当時の5大国であった米・英・仏・伊・日の間で海軍軍縮条約(ワシントン海軍軍縮条約・1922年、ロンドン海軍軍縮条約・1930年)が結ばれました。

なぜ日本は戦艦大和をつくったのか?

しかし、1929年の世界恐慌後、国際情勢が不安定となるなかで海軍軍縮条約の効力は失われました

海軍軍縮条約では軍艦の製造が制限されていましたが、その効力が失われると、大国間で再び軍艦製造競争が起こることが想定されました。そのため、日本でも新しい軍艦をつくることになったのです。

しかし、5大国のなかで国力が劣る日本は、数多くの戦艦はつくれませんでした。そこで、数は少なくても高性能の大砲を備えた“超大型の軍艦”をつくることで、他国に対抗しようという発想になりました。そして、「戦艦大和」が誕生したわけです。

変化への対応が
勝者を決める

ところが、軍艦同士が大砲を打ち合って戦う時代は、終わりを告げることが予想されていました。

第一次大戦後、急速に進化した航空戦闘機により戦艦を攻めるようになれば、どんなに大きな軍艦でも劣勢に立たされることが想像できたのです。

このことを主張した人物こそ、海軍の幹部だった山本五十六でした。アメリカに留学した経験がある山本は、航空戦闘機の進化により戦い方が大きく変わることを予想していました。そのため、戦艦大和の製造にも反対したのです。

過去の成功体験が
現状判断を狂わせる

しかし、日露戦争の日本海海戦(1905年)で、東郷平八郎(1847~1934年)が指揮する連合艦隊によってバルチック艦隊を破った成功体験がある海軍の多数派は、戦艦大和の製造に突き進んでいきます。

その結果、当時の国家予算のおよそ5%もの巨費を投じて、戦艦大和を完成させたのです。

艦内は広く快適な冷暖房完備で、エレベーター、ラムネやアイスクリームの製造機まであり、戦中とは思えない豪華な食事もあって、「大和ホテル」と揶揄されるほどでした。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。