将門の首塚の由緒はたいへん古い。朝廷との争いに敗れた将門が、日本最初の獄門=さらし首になったのは940年。だがその首は生きているように「しい」と笑ったり、体を求めて京都から東国を目指して飛び立ったとか。その途中で落ちたとされる芝崎村が、現在の首塚の地である。由来によれば1305年、芝崎村にて疫病が蔓延したため、真教(しんきょう)上人が将門の怨霊を神田明神として祀り、日輪寺に供養して鎮めたとされる。そして江戸城および都市の開発に伴い、神田明神は現在地(外神田二丁目)へ移動。
ただその後の江戸時代に、祟りの噂は発生しなかった。おそらく当時の人々からは「神田明神の跡地」「将門公の首を洗った池」または「縁結びの将門稲荷」というポップな場所として認識されていただろう。
そもそもここが将門の墓所として認識されるようになったのは、『平将門故蹟考』(1907)を著した織田完之(おだかんし)たちの将門再評価運動による。情熱的に各地の将門関連史跡を調査していった織田は、大蔵省内の盛り土と将門伝説に着目。この時にはまだ盛り土の古墳はそのまま保存されていて、大蔵官僚・阪谷芳郎(さかたによしろう 渋沢栄一の娘婿)の尽力もあり発掘調査が開始。遺体や首などは出土しなかったが、何者かを供養した塚であることは判明し、1903年に史跡認定へと至る。ただ当時の将門再評価は、天皇の逆賊とされた汚名を返上せんとする啓蒙活動といった面が強く、オカルチックな要素は見られない。
大蔵省での様々な災厄と首塚の祟りが結びつけられたのは昭和に入ってから。つまりまだ発生から100年も経っていない、新しい現代怪談なのだ。その他のエピソードが世間に広まったのはもっと遅い1976年前後。これは三井物産ビル建設に伴う第5期整備工事、そして将門を主役としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』放送が重なったタイミングだ。将門人気の再燃により、マスコミが数々の怪談エピソードを発掘し、日本中に広めたという流れである。
1980年代から90年代には首塚怪談がさらに発展。荒俣宏(あらまたひろし)『帝都物語』(1985)や加門七海(かもんななみ)『平将門は神になれたか』(1993)といった伝奇ロマンで首塚が注目される。また「1990年、爆笑問題の太田光がテレビロケ中に首塚を蹴った祟りで、その後3年も仕事を干された」との噂も有名だ。
そして2021年、45年ぶりの再整備工事により、将門塚の石碑はリニューアルされた。その工事初期、石碑を移動させたとたん茨城県沖で最大震度5弱の地震が発生し、「将門塚の祟りか」と騒がれたものだ。将門の首塚は現代人にとっての、祟りをもたらす怖ろしいスポットなのだ。